鎌倉幕府以後、我が国の政治権力者は天皇の権威を活用しましたが、それゆえに、天皇のもとで築かれてきた古い文化を破壊することは少なく、むしろ「民安かれ」という天皇のご意思を受け止めて、民を過酷に扱うような政治が行われることはほとんどありませんでした。
また、時が流れて、政治権力者の失政によって政権交代が起きても、室町幕府や江戸幕府などがそうであったように、単純に政治権力者が交代しただけであり、他国のような「国家元首と国民との対立」は起きませんでした。
権威としての天皇がご存在し続けることで、政権の交代が時折起きたとしても、全体的には政治が大いに安定した我が国では、外国に比べて平和な時代が長く続いたことで、我が国独自の文化も着実に成熟していったと考えられるのです。なお、この形態は「日本文明」の本質そのものと言って良いでしょう。
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そもそも「幕府」という言葉の本来の意味は、チャイナにおける「王に代わって指揮を取る将軍の出先における臨時の基地」です。この場合、チャイナの皇帝は円滑に戦争を進めさせるため、将軍に対して、本来は皇帝の権限である徴税権や徴兵権を委任していました。
つまり、頼朝は自らを「幕府の将軍」になぞらえることによって、朝廷から独立した軍事政権を確立しようとしたのです。
頼朝は、征夷大将軍に任じられる前から、守護や地頭の設置などによって、鎌倉を中心に東国で政治の実権を事実上は握っていましたが、自己の立場を朝廷、すなわち天皇に「公認」してもらうことで、より安定した政権を築こうという思惑があったと考えられます。
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そして、平安時代の初期こそ桓武(かんむ)天皇がご自身で政治を行われましたが、時が進むにつれて歴代の天皇は次第に政治的権力から遠ざかられ、先述のとおり、建久(けんきゅう)3(1192)年に源頼朝(みなもとのよりとも)が朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて鎌倉幕府を開く頃には、天皇がお自ら権力を行使されることはなくなりました。
しかし、天皇は新たな政治権力者となった武家と対立するのではなく、政治権力者が「民のために祈り続けた」天皇の権威を押し頂いて政治を行うことが、我が国の新たな政治文化としての伝統となったのです。
なぜそう言い切れるのでしょうか。その背景には「征夷大将軍」の位置づけがあります。
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大和朝廷は、皇室の宗教的儀礼を背景として武力や財力を蓄(たくわ)え、遅くとも4世紀半ばまでには国土の多くを統一し、その勢力は関東から九州北部にまで及んだとされています。なお、先述の仁徳天皇のお話は、この頃の時代にあたります。
時代が下って6世紀の末から7世紀の前半にかけては、我が国初の女帝である推古(すいこ)天皇の皇太子となった聖徳太子(しょうとくたいし)が内政あるいは外交において大きな実績を残し、我が国が自主独立の国家となるきっかけをつくりました。
聖徳太子の死後は豪族の蘇我氏(そがし)による横暴が続きましたが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)によって645年に蘇我氏が倒されると、我が国史上初めての元号となる「大化(たいか)」を制定するなどの様々な改革が行われました。これらを総称して「大化の改新」といいます。
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ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから、大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。
これらのことは、古代から現地の土木事業にかかわってきた一般国民からすれば「空気のように当たり前のこと」でした。ところが、机上の理論を振りかざした「頭の良い」学者たちは、世間の常識よりも自分たちの考えを優先させますから、戦後になって「常識では考えられない学説」がまかり通るようになりました。
記紀などの伝説を否定する彼らによって、古墳はいつしか「権力者による支配の象徴」とされたばかりか、ついには仁徳天皇のご存在までが否定され、多くの歴史教科書で「大仙陵(だいせんりょう)古墳」と書かれている有様です。
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このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとらえた見方をする人物もあるようですが、私に言わせれば、そんな人物こそが「机上の空論を振りかざす愚か者」でしかありません。
なぜそう断定できるのでしょうか。そのカギを握るのは「土木事業によって生み出された『あるモノ』」です。
当たり前のことですが、大規模な土木工事を行えば必ず大量の土砂が出ます。これらの土砂は、現代であればダンプカーなどに乗せて港湾の埋め立て工事に使ったりしますが、大昔にはそんな便利なものはありませんから、計画的にどこかに「盛(も)り土(つち)」することになります。
実は、古墳はこの盛り土を上手に活用してつくられたものなのです。だからこそ古墳は平野部にしかなく、また仁徳天皇の場合は土木事業が大規模であったことで大量の盛り土が発生していたからこそ、世界最大級の陵墓となったのです。
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1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこと
2.茨田堤(まんだのつつみ、現在の大阪府寝屋川市付近)を築造したこと
3.山背(やましろ、後の山城)の栗隈県(くるくまのあがた、現在の京都府城陽市西北~久世郡久御山町付近)に灌漑(かんがい)用水を引かせたこと
4.茨田屯倉(まむたのみやけ、屯倉とは天皇の直轄領のこと)を設立したこと
5.和珥池(わにのいけ、現在の奈良市付近か)や横野堤(よこののつつみ、現在の大阪市生野区付近)を築造したこと
6.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、現在の大阪府南河内郡河南町付近)を掘削(くっさく)し、広大な田地を開拓したこと
7.紀角宿禰(きのつののすくね、武内宿禰=たけのうちのすくねの子)を朝鮮半島の百済(くだら)へ遣(つか)わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録したこと
国民の幸福を常に願われた仁徳天皇は、彼らが飢(う)えないように農地を確保し、また治水を行って水害を防ぐなど、その在位中に大規模な土木工事を何度も行われました。これらの大事業によって国が豊かになり、国民は天皇に深く感謝したからこそ、崩御後に巨大な陵墓(りょうぼ)をつくったのです。
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「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。
皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みしながら仰られたそうです。
「国は民(たみ)が本(もと)である。その民が富んでいるのだから、朕も富んだということなのだ」。
この後、天皇はさらに3年ものあいだ引き続き税を免除され、6年後にようやく税を納めさせるとともに、宮殿の修理をお許しになりました。すると、仁徳天皇の善政に感謝していた多くの国民が、誰に強制されるわけでもなく自ら進んで修理をはじめ、あっという間に立派な宮殿ができあがったと伝えられています。
このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀」に記載があります。
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「高き屋(や)に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民(たみ)のかまどは にぎはひにけり」
以上は有名な「民のかまど」のエピソードですが、実はこの話には続きがあります。
民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后陛下に以下のように仰られました。
「朕(ちん)はすでに富んだ。喜ばしいことだ」。
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古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。
ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)から人家(じんか)を眺(なが)められた際に、かまどから煙が立ちのぼっていないことに気が付かれました。
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないからではないか。都ですらこうなのだから、地方はなおひどいことであろう」。そう思われた仁徳天皇は、すぐさま3年間税を免除され、宮殿の屋根が傷んでもそのままにされていました。
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