連隊長としてあるまじき大失態に絶望した乃木将軍は、もはや死をもってその大罪を償う他はないと言わんばかりに、敵の砲煙弾雨(ほうえんだんう)をものともしない奮闘ぶりを見せ、同年4月に官軍が薩摩軍の熊本城に対する包囲網を打ち砕くと、同月22日に乃木将軍はその功績を称えられて中佐に昇進し、熊本鎮台参謀に任じられました。
連隊旗喪失の件も、西南の役の功績が評価されて無罪となった乃木将軍でしたが、彼の心は暗く沈んでいました。そんなある日、彼はついに人知れず割腹自決を遂げようとしたのですが、同じ熊本鎮台参謀で、長州藩出身者として普段から親しかった児玉源太郎(こだまげんたろう)少佐が気付き、すんでのところで食い止めることに成功しました。
どうにか自決を止めることができた児玉は、乃木将軍に向かって言いました。
「死ぬなら立派に死ね。しかし、貴様が腹を切ったら失った軍旗が出てくるとでもいうのか。もし仮に軍旗が出てきたとしても、その責任はそれで済むのか。武士が過失をしても、腹さえ切ればそれで責任が解除されるというのが、俺たちが学んだ武士道なのか。どうせ死ぬと決めたのならば、過失を償(つぐな)うだけの働きをしてからでも遅くはあるまい。ただ死ぬのは犬死だ」。
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父親の希次の厳しい教育と、乃木家の親戚であり父の親友、さらには吉田松陰(よしだしょういん)の叔父でもあった、萩の玉木文之進(たまきぶんのしん)の薫陶(くんとう)を受けた乃木将軍は、心身共に立派な男子として成長を遂(と)げました。
明治維新を迎えた後も、次々と出世を重ねた乃木将軍は、明治4(1871)年旧暦11月に陸軍少佐に昇進しました。当時22歳で少佐に任じられたのは異例の大抜擢であり、後に任官された日を「生涯で何よりも愉快な日であった」と述懐しています。
その後、明治10(1877)年2月に「西南の役(えき)」が始まり、西郷隆盛を首領とする薩摩軍が熊本城を包囲すると、乃木将軍は主力を率いて小倉を出陣し、2月22日の夜に熊本城から北約10kmに位置する植木という場所で薩摩軍と遭遇(そうぐう)しました。
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そこで、今から約900年前に大江家(おおえけ)があらわした兵法書が、日本人本来の精神的な崇高(すうこう)さや美徳を重視した闘戦経であり、武士道精神を守るとともに、孫子ばかりに頼って国を誤ることのない様にと伝えられたものとされています。
なお、孫子と闘戦経とを表裏(ひょうり)で学んだ天才的な武人としては、あらゆる戦術を完璧にこなして、類稀(たぐいまれ)なる立派な戦例を残しながら、最期には君命に従って湊川(みなとがわ)で壮絶な戦死を遂げた楠木正成(くすのきまさしげ)の名が挙げられます。
振り返れば、西郷隆盛のこれまでの姿勢は、時として幕府を挑発して戊辰戦争を起こさせるなど「孫子の兵法」が見られる一方で、山岡鉄舟の説得を受けいれたり、自ら降伏した庄内藩に寛大な処置を行ったりと「武士道精神」の神髄(しんずい)が見受けられるのも、西郷自身が闘戦経の体現者である証拠だとはいえないでしょうか。
なお、闘戦経に基づく武士道精神は、その後の彼の人生に幾度も垣間見えるようになります。
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「武士が一旦兜(かぶと)を脱いで降伏した以上、武士の一言(いちごん)を信じるのが武士というものである。もし反逆すれば、また討てばよい」。
それにしても、長州藩の厳しい処置に比べて、なぜ西郷はここまで寛大であったのでしょうか。その背景には、西郷が自然と身に着けていた武士道精神に基づく兵法がありました。
その精神をまとめたものを「闘戦経(とうせんきょう)」といいます。
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「切腹して詫(わ)びるなど、とんでもないことだ!」
西郷は藩主や重臣の切腹を認めなかったどころか、庄内藩が差し出した武器一切の目録も「貴藩には北方の守りをしてもらわねばならないのだから、武器はそのままお持ちください」と返してしまいました。
また城明け渡しの儀式に際しては「敵味方に分かれるのは運命であり、一旦(いったん)帰順したからには兄弟も同じである」と官軍を丸腰で入場させる一方で、庄内藩士には帯刀(たいとう)を許しました。
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「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」。
江戸城の無血開城によって大規模な戦乱は回避されたものの、戦わずして降伏することを嫌った旧幕臣を中心とする抗戦派は、「奥羽越(おううえつ)列藩同盟」を結成していた東北諸藩を中心に各地で戦闘を続けましたが、ここで大きく明暗が別れることになりました。
かつて幕府のもとで京都守護職を務めた会津藩(あいづはん)に対して、長州藩が当時の恨みを晴らすべく攻め込んだのです。後に「会津戦争」と呼ばれた戦いにおいて、会津藩は徹底的に攻撃を受け、多くの血を流した末に降伏しました。
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山岡は翌3月10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。
西郷と勝との話し合いは明治元(1868)年旧暦3月13日から14日にかけて江戸の薩摩藩屋敷で行われました。その結果、旧幕府は江戸城を無傷で明け渡し、慶喜は故郷の水戸で自主的に謹慎するという、極めて平和的な内容で決着し、西郷は翌15日に行う予定であった江戸城への攻撃を中止しました。
この後4月に江戸城は争うことなく開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避できたほか、江戸を焼け野原から防いだことは、後の首都移転など大きな効果をもたらすことになりました。
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西郷の条件は江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは「徳川慶喜の身柄(みがら)を備前藩(びぜんはん)に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪(るざい)になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも絶対に受けいれられなかったのです。
山岡が「慶喜の備前藩お預け」を拒否すると、西郷も「これは朝命(ちょうめい、朝廷の命令=天皇の命令のこと)である」と一歩も引きませんでした。二人の話し合いは平行線をたどり、もはや決裂かと思われたその時、山岡が西郷に迫りました。
「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
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西郷による、なりふり構わぬ策士ぶりが大きな歴史の流れを動かしたことになります。なお、この当時江戸市内の警備をしており、江戸の薩摩藩邸を焼討ちして戊辰戦争のきっかけをつくったのが、酒井家(さかいけ)の庄内藩(しょうないはん)だったことが、後の西郷自身と庄内藩との運命を大きく変えることにつながりました。
明治元(1868)年旧暦1月3日、慶喜率いる旧幕府軍は、薩長を中心とする官軍となった討幕軍と京都の鳥羽・伏見で激突しました。これを「鳥羽・伏見の戦い」といいます。戦いは官軍の圧勝に終わり、朝敵となった慶喜は江戸城に入りましたが、勢いに乗る官軍は慶喜への征討軍を編成して江戸へ向かわせました。
征討軍が駿府(すんぷ、現在の静岡)にまで迫ってくると、旧幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)は早期の停戦と江戸城の開城を慶喜に進言し、交渉を委任されました。
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王政復古の大号令が発せられた同じ日の夜に「小御所(こごしょ)会議」が明治天皇ご臨席のもとで開かれました。旧幕府側の前土佐藩主の山内容堂(やまうちようどう)らは、この会議に前将軍の徳川慶喜が出席できないことを抗議しましたが、岩倉具視らが受けいれないなど話し合いは紛糾(ふんきゅう、意見や主張などが対立してもつれること)し、やがて休憩に入りました。
休憩時、岩倉は外で警備をしていた西郷に意見を求めると、西郷は「短刀一本あれば用は足りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟をもてば道は開けると岩倉を勇気づけたのでした。
西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届くと、土佐藩に傷をつけてまで幕府に肩入れすることはないと判断した山内はその後沈黙し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議は進みました。結局慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。
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