朝鮮戦争によって、我が国に駐留していたアメリカ軍が国連軍として出動しましたが、その際にアメリカ軍と我が国の業者との間で、国連軍への物資の提供やサービスの調達が直接契約で結ばれました。
この契約は、我が国が戦地に近いこともあって、アメリカ軍から繊維(せんい)・金属・機械などの発注が急増し、巨額の発注高となったほか、対価の大半がドルで支払われたため、日本政府の手持ちの外貨が戦争前の約2億ドルから約9億4000万ドル余りまで一気に増加しました。
かくして、我が国の経済は朝鮮戦争による特需によって急激に上向きとなったのです。これを「特需景気」といいます。
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かくして、我が国は自国の安全保障をアメリカに委(ゆだ)ねるかたちとなりましたが、当初の条約は片務的(へんむてき、契約の当事者の一方のみが義務を負うこと)であり、アメリカに有利な内容でした。
例えば、我が国に駐留するアメリカ軍に日本防衛の義務がないことや、駐留軍には日本政府の要請に応じて内乱を鎮圧する権利があってもその義務がないこと、あるいは日本の意思だけでは条約を廃棄(はいき)できないことなどが規定されていたのです。
しかし、日本国憲法において事実上の非武装国と化していた我が国が、独立回復を機に米軍に撤退されれば、丸裸となった我が国が他国に侵略されるのは自明の理でした。現実問題として、我が国が現在に至るまで平和が保たれているのは、アメリカの「核の傘」に入り込むかたちとなった日米安保条約のおかげであり、決して日本国憲法第9条によるものではありません。
対等な立場での日米軍事同盟の構築を目指した我が国は、アメリカに働きかけることによって、約10年後の昭和35(1960)年に日米安保条約が改定されましたが、その際に大規模な「反対運動」が起きてしまうのです(詳細は後述します)。
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無論、我が国は茶番劇たる東京裁判のすべてを受けいれる意図はありませんでした。しかし、戦後から40年が経過した昭和60(1985)年頃から、日本政府の公式な見解として「東京裁判を受諾して日本は国際社会に復帰した」という表現をするようになっています。
そもそも我が国は東京裁判などの「諸判決」のみを受けいれたからこそ、独立回復後の昭和28(1953)年に、一方的に戦犯として処罰された人々の名誉を、前回(第66回)述べたように衆議院において全会一致で回復させ、我が国から戦犯をなくしたのです。
我が国の名誉のためにも、意図的ともいえる誤訳を何としても解消しなければならないのではないでしょうか。
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第11条の正確な内容は「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の『諸判決』を受諾する」ですが、当時の外務省によって「諸判決」が「裁判」と誤訳されてしまったのです。
「日本は『極東国際軍事裁判(=東京裁判)』の『諸判決』を受諾する」という条約の正式な英文は「Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East.」ですが、これが「裁判を受諾する」という英語であれば「Japan accepts the judgment of the International Military Tribunal for the Far East.」と言う表記となります。
この場合なら、相当無理をして「単数形」の「judgment」を「裁判」と訳したうえで「日本は極東軍事法廷の裁判を受諾する」と全体を翻訳することは有り得るかもしれませんが、正式な条文では、そのような「誤解」をなくすため、英語の正文で「複数形」たる「judgments」としました。「裁判」ではなく「諸判決」であることを明確にする意図があったためと考えられます。
さらに付け加えれば、これが「日本は極東国際軍事裁判そのものを受諾する」となると、英語の直訳では「Japan accepts the International Military Tribunal for the Far East.」という表記となりますから「the judgments of」がなくなります。従って、条文を「裁判」と訳したのは明らかに「誤訳」であり、条約を調印した最初の段階から、我が国に贖罪(しょくざい、犯した罪をつぐなうこと)意識を植えつけるといったような、何らかの意図や思惑があったのではとも疑われるのです。
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連合国のうち、ソ連やチェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)・ポーランドは講和会議に出席したものの調印せず、インド・ビルマ(現在のミャンマー)・ユーゴスラビアは参加しませんでした。また、中華人民共和国および中華民国(=台湾)は、代表政権をめぐる意見不一致のため、会議に招かれませんでした。
サンフランシスコ講和条約において、我が国は海外に持っていた領土などの権利をすべて放棄しましたが、同時に交戦国の多くが我が国への賠償請求権を放棄しました。我が国は1年後の昭和27(1952)年にインドと「日印平和条約」を、中華民国(=台湾)と「日華平和条約」を結びましたが、両国とも賠償請求権を放棄しています。
結局、我が国が戦後補償に応じたのは、フィリピンやビルマ・インドネシア・南ベトナム(当時)などの一部の国に留まりました。なお、我が国は南樺太(みなみからふと)や千島列島の権利を放棄しましたが、ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印していないため、国際法上における北方領土を除く千島列島や南樺太の帰属は確定していません。
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ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第68回)は「戦後史検討 その3 ~昭和から平成へ」と題し、自民党による保守長期政権がもたらした功罪や、激動の昭和の終焉と平成時代の幕開け、冷戦体制の崩壊とその後の影響などを中心にご紹介します。

(クリックで拡大されます)
講座に参加をご希望の皆様(特に東京講演においては関東在住の方々)は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば幸いです。当日の飛び入り参加も歓迎いたします。講座の内容については、これまでと同様に後日にはブログ上で映像とともに発表します。
第68回黒田裕樹の歴史講座
「戦後史検討 その3 ~昭和から平成へ」
主催:一般社団法人正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
【東京講演】
日時:平成30年9月16日(日) 午後3時より
場所:スター貸会議室 飯田橋 (会場は2階です)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,500円(高校生以下は無料)
【大阪講演】
日時:平成30年9月22日(土) 午後2時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第1研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,500円(高校生以下は無料)
※大阪講演と東京講演の両方に参加された場合、大阪講演の資料代は無料とします。
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,500円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
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昭和25(1950)年1月には、当時の南原繁(なんばらしげる)東大総長などが「単独講和は特定国家への依存や隷属(れいぞく)をもたらすものである」と全面講和を主張し、また一部の新聞社や雑誌社、あるいは社会党や共産党、さらには総評や日本教職員組合(=日教組)も活発な反対運動を展開しました。
しかし、彼らが主張する「全面講和」に対して、いわゆる「単独講和」はソ連やその衛星国数か国を除いたものに過ぎず、さらには米ソによる「冷戦」が続く状況下では、全面講和論は現実性を持たないものでした。
南原総長の主張に対し、当時の吉田茂首相は「全面講和は到底行われないことであり、政治家の領域に立ち入ってかれこれ言うことは、曲学阿世(きょくがくあせい、真理にそむいて時代の好みにおもねり世間の人に気に入られるような説を唱えること)の徒に他ならない」と批判しています。
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そして戦後、日本というストッパーがなくなった東アジアは、朝鮮戦争の勃発に代表されるように、中国大陸や満州やモンゴル、あるいはシベリアに至るまで、大陸のほとんどが共産主義と化してしまったのです。
自らが招いた事態の深刻さにようやく気づいたアメリカは、日本を自分たちの陣営に引き込むため、我が国との講和を急ぐようになりましたが、それは日本国内においても講和問題への関心が高まるという効果をもたらしました。
しかし、こうした動きを最も警戒したのがソ連でした。かつて零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機)や戦艦大和などを自力で作ったほどの実力を持つ日本が、自分たちと敵対する自由主義陣営(=西側諸国)につくことを恐れたからです。
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しかしその一方で、当時の我が国は復興への道をようやく歩み始めたばかりであり、経済に過酷な負担を強(し)いることになる再軍備が、現実的に可能だったかどうかという見方もあります。
また、朝鮮戦争で数百万人もの尊い生命が失われていることから、終戦間もない我が国が戦争に参加することで、多数の犠牲者を出すことを当時の国内世論が受けいれたかどうかということも、判断材料の一つとしてとらえるべきではないでしょうか。
いずれにせよ、アメリカによる再軍備の要求は、我が国における講和問題への関心をより加速させる効果をもたらしましたが、同時に講和方針をめぐって国論を二分する対立も生み出しました。
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昭和26(1951)年1月に来日した大統領特別顧問のダレスは、我が国に対して「対日講和七原則」を示して、単独(多数)講和や在日米軍の駐留などの構想を明らかにするとともに、我が国の再軍備を強く迫りました。
しかし、当時の吉田茂首相は、日本国憲法第9条によって我が国が戦争放棄をうたっていることを理由として再軍備の要求を拒絶し、アメリカもこれに同意しました。
かくして我が国は、経済の復興を最大の目標に掲(かか)げるとともに、国家の防衛をアメリカの軍事力に依存するという、戦後日本の基本的な枠組みを構築したのです。
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