しかし、国力を飛躍的に高めたのはアメリカだけではありませんでした。1917(大正6)年のロシア革命によって、1922(大正11)年に誕生したソビエト社会主義共和国連邦(=ソ連)も、アメリカと同じように世界に対して圧倒的な影響力を持つまでにのし上がっていたのです。
自由主義(または資本主義)国家のアメリカと、共産主義(または社会主義)国家のソ連という、国家体制の全く異なる両大国は、第二次世界大戦末期以降、次第に相互不信と利害対立を深めました。
かくして、国際平和維持のために国際連合が設立されながら、戦後の国際秩序をめぐって米ソ両国の対立が激しさを増すという、何とも皮肉めいた展開が戦後世界を形成するようになってしまいました。なお、これを「米ソ対立」といいます。
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このため、国際連合すなわち「United Nations(連合国)」には、日本やドイツなど旧枢軸(すうじく)国、すなわち旧「敵国」に対して軍事行動を起こす場合は、安全保障理事会の許可を必要としないという例外的規定(これを「敵国条項」といいます)が設けられており、いまだに削除されていません。
また、我が国が神話の時代を含めれば2670年を超える歴史と伝統を誇るとともに、かつての国際連盟では常任理事国を務めるなど世界有数の大国であり、さらには国連に対して多額の分担金(世界第2位)を負担しながら、安全保障理事会の常任理事国に就任できないという問題も抱えています。
なお、我が国は国際連合の設立時にはソ連の反対もあって加盟できず、日ソ共同宣言によってソ連との国交が結ばれた昭和31(1956)年にようやく加盟しました。ちなみに、平成29(2017)年現在の国連加盟国は193か国となっています。
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こうした流れを受けて、アメリカ・イギリス・ソ連の3か国を中心とした戦争終結後の国際秩序構築への動きが高まり、1945(昭和20)年6月に開かれたサンフランシスコ連合国会議で調印された「国際連合憲章」に基づき、同年10月に、第二次世界大戦の戦勝国である51か国を原加盟国として「国際連合」が発足しました。
先の国際連盟の反省に基づいて、国際連合では、侵略国に対して国際連合軍(=国連軍)を組織し、紛争解決のために対処し得るものとされました。
しかし、安全保障理事会の常任理事国であるアメリカ・イギリス・フランス・ソ連(後のロシア)・中華民国(後に中華人民共和国に交代)に拒否権があるため、大国同士の利害の衝突(しょうとつ)がしばしば起きています。
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泣きじゃくる青年に対して、陛下は頷(うなず)きながら微笑みかけられました。昭和天皇による慈愛(じあい)に満ちたお振る舞いやお言葉が、洗脳された青年たちの心を溶かしたのです。
その後も昭和天皇によるご巡幸は続けられ、昭和29(1954)年8月の北海道ご視察まで、当時アメリカの占領を受けていた沖縄を除く全国46都道府県において、日数にして165日、延べ3万3千kmにも及びました。陛下がご巡幸の際に直接お声を掛けられた人々は、2万人にものぼったといわれています。
ご巡幸において人々を励まされ、人々と共に悲しまれ、そして涙を流された昭和天皇のお姿を間近に拝見した国民は大いに感激するとともに、陛下の大御心(おおみこころ)に恥じないように自分たちも頑張らなければいけない、という気持ちが自然と芽生えていきました。
多くの国民が共通して抱いた熱意は、その後の復興への目覚ましいエネルギーとなったのです。
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「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。皆さんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。みなさんと共に手を携(たずさ)えて、新しい道を築き上げたいと思います」。
昭和天皇のお言葉を受け、引揚げ者の一人が陛下に近づいて、以下のように言いました。
「私は陛下を恨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなく、陛下も苦しんでいらっしゃることが今分かりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。陛下と一緒に私も頑張ります!」
この言葉に対して、側(そば)にいた青年が声をあげて泣き伏しました。
「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。俺が間違っておった。俺が誤っておった!」
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「どなたが戦死をされたのか」。
「息子でございます。たった一人の息子でございました」。
声を詰まらせながら返事をする老婆に、陛下は続けて声をかけられました。
「どこで戦死をされたの?」
「ビルマ(現在のミャンマー)でございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。息子の命は陛下に差し上げております。息子の命のためにも、長生きをしてください」。
そう言って老婆は泣き伏してしまいました。じっと耳を傾けておられた昭和天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられておられたそうです。
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「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」。
そう仰った昭和天皇の目から、はたはたと涙が流れ落ち、女の子は小さな声で「お父さん」と陛下を呼びました。
このとき、その場にいた大人たちは、東京から随行した新聞記者も含めて、皆が顔を覆(おお)って泣いたそうです。
「みほとけの 教(おしえ)まもりて すくすくと 生(お)ひ育つべき 子らにさちあれ」
上記の御製は、因通寺の梵鐘(ぼんしょう)に鋳込(いこ)まれています。
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寮の各部屋の孤児一人ひとりに対して声をかけられた陛下は、最後の部屋で父と母の位牌(いはい)を抱いていた女の子に目を留められ、お尋ねになられました。
「(位牌をご覧になって)お父さん、お母さん?」
「はい、そうです」。
「どこで?」
「父はソ満(そまん、ソ連と満州のこと)国境で、母は引揚げの途中で亡くなりました」。
じっと女の子の顔をご覧になった陛下は、悲しそうなお顔をされてお言葉を続けられました。
「おさびしい?」
「いいえ、さびしくはありません。私は仏の子供ですから、お父さんやお母さんに会いたいと思えば、み仏様の前に座って呼びかければ、そばにやって来てそっと私を抱きしめてくれます。ですから私はさびしくはありません」。
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奉迎場(ほうげいじょう、身分の高い人をお迎えする場所)となった広島護国神社の跡地には、何と7万人もの人々が集まりました。昭和天皇はマイクを使用されて、以下のお言葉を発せられました。
「このたびは皆の熱心な歓迎を受けてうれしく思う。本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思う。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献しなければならない」。
陛下の激励に対して、7万の群衆が一体となって「天皇陛下万歳!」と何度も何度も叫びましたが、GHQの関係者は、特に天皇を恨んでいる者が多いと思っていた被爆地の広島でのこの様子に、驚くとともに恐ろしくなりました。
この影響もあったのか、翌昭和23(1948)年にご巡幸は中止となりましたが、多くの国民の熱意によって、翌昭和24(1949)年に再開されました。以下は広島における陛下の御製です。
「ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ たちなほる見えて うれしかりけり」
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しかし、陛下は「戦災の国民のことを考えれば何でもない。十日ぐらいは風呂に入らなくてもかまわない」と全く気にされることもなく、元気にご巡幸の毎日をお過ごしになられました。
昭和22(1947)年8月の暑い盛りに福島県の炭坑をご巡幸された際は、地下450mの地底まで降りられ、さらに40度を超える炎暑の坑内を150mも歩かれて、居並ぶ坑夫たちを激励されました。
当時は石炭が貴重なエネルギーでしたが、陛下のお出ましに感激した坑夫たちによって、その後の出炭率が急上昇したそうです。以下は当時の情景を詠まれた御製です。
「あつさつよき 磐城(いわき)の里の 炭山に はたらく人を ををし(=雄々し)とぞ見し」
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