翌1919(大正8)年1月に、フランスのパリで講和会議が開かれましたが、我が国も連合国の一国として、当時の原敬(はらたかし)内閣が、西園寺公望(さいおんじきんもち)を全権として会議に派遣しました。
会議の結果、同年6月にドイツと連合国との間で講和条約が結ばれましたが、ドイツは全植民地を失ったほか、本国領土の一部を割譲(かつじょう)させられたのみならず、軍事を制限されたうえに多額の賠償金が課せられることになりました。なお、この講和条約は「ヴェルサイユ条約」と呼ばれており、また、条約に基づく新たなヨーロッパの国際秩序を「ヴェルサイユ体制」といいます。
ヴェルサイユ条約によって、我が国は山東半島におけるドイツの権益を譲り受けたほか、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。なお、このときに我が国が委任統治した島々の一つに、現在の「パラオ共和国」があります。
パリ講和会議は敗戦国となったドイツにとって非常に厳しい内容となりましたが、実は我が国にとっても、権益など得るものが多かった一方で、国際的に苦しい立場に追い込まれることになったというもう一つの事実があり、またそうなった原因をつくったのが、アメリカとチャイナ(=中華民国)でした。
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コミンテルンはやがて目標の一つを東アジアに定め、中国大陸内で民衆に共産主義を広めたほか、我が国にもコミンテルン日本支部ともいうべき組織を「日本共産党」という名称で大正11(1922)年に秘密裏(ひみつり)に立ち上げました。
そもそも我が国は、ソビエトと国境を接した満州に権益を持ち、あるいは朝鮮半島を自国の領土としていましたから、ロマノフ王朝を皆殺しにするなど、君主制の廃止を何とも思わなかった共産主義による脅威(きょうい)を、天皇陛下に万が一のことがあっては大変なことになると、世界で最も強く感じていました。
共産主義への恐怖と内部で密(ひそ)かに進んだコミンテルンの工作とが、大正時代以降の我が国の歩みを大きく狂わせる結果を招くようになるのです。
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なお、我が国が保障占領した北樺太ですが、国家としてのソ連が成立した後の大正14(1925)年に日ソ基本条約が締結され、両国の国交が樹立したのを受けて、我が国が撤兵しています。
ロマノフ王朝による帝政ロシアの時代に、当時の民衆は支配者たる王朝の圧政に苦しめられ続けました。だからこそ、彼らはマルクスによる「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という共産主義思想に憧れて、ロシア革命を引き起こしたのです。
しかし、共産党による一党独裁の政治を始めたソビエトは、共産主義社会の実現を名目として、反対する民衆を、裁判にかけることもなく有無を言わさず大量に虐殺しました。政治や言論の自由を失った民衆からしてみれば、ロマノフ王朝以上に抑圧された、非民主国家での圧政の日々と言えたかもしれません。
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後になって、ソビエトの革命政府が事件の非を認めてパルチザンの責任者を処刑しましたが、我が国が求めた賠償を革命政府が拒否したこともあって、現地での安全保障を重視した我が国は、大正11(1922)年までシベリアから撤兵ができませんでした。
シベリア出兵は最終的に当時で約10億円を費(つい)やしたほか、将兵約72,000人を現地に派遣し、そのうち約3,500名を失うこととなりましたが、結果としては何も得るものがなかったばかりか、領土的野心を周辺諸国に疑われ、特に日米関係に大きな溝をつくってしまいました。
ところで、我が国の多くの住民や兵士が虐殺された尼港事件ですが、これだけの大惨事でありながら、なぜか我が国の高校での歴史教科書の多くが取り上げていません。
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パルチザンは我が国の守備隊と一旦は講和しましたが、やがて共産主義に同調しないニコライエフスクの市民を革命裁判と称して次々に虐殺するなど乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を繰り返し、同年3月には日本軍守備隊を全滅させ、また一部の日本人居留民を捕虜(ほりょ)としました。
日本政府は雪解けを待ってニコライエフスクに救援軍を派遣しましたが、パルチザンは救援軍が到着する前に、捕虜としていた日本人をことごとく惨殺(ざんさつ)したほか、市民のおよそ半分にあたる約6,000人を反革命派として虐殺し、最後には市外に火を放って逃走しました。
ニコライエフスクにいた約七百数十名の日本人全員が、戦死あるいは虐殺されるという大惨事に対し、我が国内で「元寇(げんこう)以来の国辱(こくじょく)だ」と対ソ強硬論が高まったのは当然でした。なお、この悲惨な事件はニコライエフスクの当時の呼称から「尼港(にこう)事件」と呼ばれています。
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ドイツに戦力を集中されることを恐れたイギリス・フランス・イタリアの三国は、当時シベリアで孤立していたチェコスロバキア軍を救援するという目的で、我が国にシベリアへの出兵を要請してきましたが、出兵によってアメリカをこれ以上刺激したくなかった我が国はこれを拒否しました。
その後、チェコ軍が危機に陥(おちい)っているという情報が流れて、アメリカ国内でチェコ軍の救援に向けて派兵すべしとの世論が高まり、アメリカが我が国に共同出兵を要請してきたことで、当時の寺内正毅内閣がようやく重い腰を上げて、大正7(1918)年8月にアメリカ・イギリス・フランスとともにシベリアへ派兵しました。これを「シベリア出兵」といいます。
しかし、出兵に際してそれぞれの思惑を持っていた各国は意思の疎通(そつう)を欠き、特に我が国はアメリカと激しく対立しました。なぜなら、アメリカが出兵した本音が「日本が満州北部やシベリアに進出するのを防止すること」であったのに対して、我が国には「ソビエトによる共産主義支配の危機が迫った満州を守る」という強い意思があったからです。
シベリア出兵は思ったよりもはかばかしい効果があげられないまま、大正9(1920)年初頭には各国が撤兵を開始しました。我が国もアメリカからの共同出兵打ち切りの報を受けて、撤兵への機運が高まりましたが、そんな折にとんでもない惨劇(さんげき)が起きてしまいました。
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三月(=二月)革命後のロシアは不安定な政治情勢が続きましたが、その中から勢力を拡大したのは、共産主義を標榜(ひょうぼう、主義・主張や立場などを公然と表すこと)するレーニンでした。マルクスに由来する「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という耳に心地よい思想が、それまでの長い帝政に苦しめられてきたロシアの民衆の熱烈な支持を集めたのです。
かくしてレーニンは、1917(大正6)年11月にクーデターによって政治の実権を握ることに成功し、世界で初めての社会主義(=共産主義)政権であるソビエト政権を樹立しました。これを「十一月革命」、またはロシアの当時の暦に合わせて「十月革命」といいます。
ソビエト政権は、1922(大正11)年に「ソビエト社会主義共和国連邦」を成立させましたが、その裏でロマノフ王朝の一族をすべて処刑したばかりか、共産主義に賛同しないと見なした人民を数百万人も虐殺(ぎゃくさつ)するなど、血にまみれた恐怖政治を行い続けました。そして、広大な領土を持つ共産主義国家が突然誕生した現実は、我が国を含めた周辺諸国に甚大(じんだい)な影響を与えることになってしまうのです。
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大正5(1916)年、我が国とロシアは第四次日露協約を結び、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認したほか、両国の軍事同盟的な関係を強化しました。また、翌大正6(1917)年にはイギリスとの間に覚書を交わして、山東省におけるドイツの権益を我が国が継承することを承認させました。
一方、我が国のチャイナへの進出に対して最も警戒し、かつ批判的であったアメリカとの間においても、同じ大正6(1917)年に、前外務大臣の石井菊次郎(いしいきくじろう)とランシング国務長官との間で「石井・ランシング協定」が結ばれ、チャイナの領土保全・門戸開放の原則と、チャイナにおける我が国の特殊権益の保有とを確認しあいました。
しかし、この協定が結ばれた当時は、アメリカが第一次世界大戦に参戦している時期であり、アメリカが我が国と協定を結んだのは、自国が参戦中に、中国大陸に対して日本が余計な手出しをしないように抑え込もうと考えたのが主な目的でした。それが証拠に、この協定は大戦終了後の大正12(1923)年に早くも破棄(はき)されています。
このように、我が国とアメリカとの関係は常に不安定であり、資源を持たない我が国にとって生命線であった満州などチャイナにおける権益を、アメリカが脅(おびや)かすようになりましたが、ちょうどこの時期に「ある大国」が滅亡したことによって、これらの権益がさらに危機的な状況を迎えてしまうのです。
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寺内内閣は西原亀三(にしはらかめぞう)を北京に派遣(はけん)して、袁世凱の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に対して巨額の借款(しゃっかん)を与えました。これを「西原借款」といいます。
借款の総額は、当時の金額で約1億4,500万円にものぼりましたが、寺内内閣がこれほどまでの巨額を北京政府に貸し付けたのは、チャイナにおける政治・経済・軍事など、様々な影響力を拡大しようとする思惑(おもわく)があったと考えられています。
しかし、その後に借款の大半が償還(しょうかん)されずに焦(こ)げついてしまったことで、我が国はほとんど成果が挙げられなかったどころか、北京政府と対立していた南方革命派の反感を買ってしまい、むしろ反日の風潮が拡大してしまいました。
西原借款は、我が国の多額の財貨を消失させたばかりか、かえってチャイナにおける反日感情を高めるという散々な結果となってしまいましたが、我が国の歴史教科書の多くが、なぜか借款が大失敗に終わったという事実を書いていません。約100年前のチャイナへの投資が、結果として我が国を苦境に陥(おちい)らせたという史実を学ぶことは、現代の中華人民共和国に対する莫大(ばくだい)な投資への「貴重かつ重要な教訓」になるはずですが…。
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しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感を植え付けせしむ結果をもたらしましたし、さらに、前回(第64回)に詳しく紹介したように、戦争後に鉄道王ハリマンの提案を我が国がはねつけたことも、満州など東アジアでの権益を狙っていたアメリカの対日感情の悪化につながりました。
かくして、アメリカは我が国に対して敵意をむき出しにするようになり、アメリカ本土における日本からの移民に厳しい政策を行うようになったほか、チャイナが喧伝した「二十一箇条の要求」を「利用」して、アメリカ政府がチャイナを支援することを表明したり、アメリカの新聞各紙もこぞって我が国を非難したりしました。
これらの「攻撃」に対して、我が国は明確な対策を講じることが結局はできず、日本に関する「意図的につくられた不当なイメージ」だけが独り歩きする結果を残してしまったのです。こうなった原因の一つとしては、元老(げんろう)がその威厳によって我が国を支えていた明治の頃と比べ、政党が自己保全のために政争を最優先することが多かった大正時代には、軍事や政治の安定したバランスが崩れていたことが挙げられます。
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