熱心な愛国家であったとされる安重根からしてみれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤の罪は重く、また伊藤こそが韓国を併合しようとしている首謀者だと考えたのかもしれません。しかし、伊藤が韓国人によって殺されるということは、現実には絶対にあってはならない出来事でした。
伊藤は維新の元勲で我が国にとって至宝(しほう、この上なく大切な宝のこと)ともいうべき存在でしたし、何よりも併合に最後まで反対していた人物です。日本政府内に併合に前向きな勢力が多い中であくまでも友好的だった人物に対し、テロ行為でお返しするというのは、どう考えても言語道断であると言わざるを得ません。
安重根によるテロ行為は、それがどのような思いのものからであったとしても、結果として我が国と韓国との歴史をそれぞれ大きく変えてしまう出来事となってしまったのです。なお、安重根は現在の韓国(=大韓民国)では英雄として称(たた)えられています。
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伊藤としては、韓国の独立国としてのプライドを守るために、近代的な政権が誕生するまでは外交権と軍事権のみを預かり、その後に主権を回復させる考えだったのです。
教育者であるとともに植民地政策に明るかった新渡戸稲造(にとべいなぞう)が、韓国の植民地化に関する計画を伊藤に持参した際にも、伊藤は「植民地にしない」と一蹴(いっしゅう)したうえで、韓国人による韓国の統治の必要性を、時間をかけて新渡戸に説明したというエピソードが残っています。
「韓国は韓国人によって統治されるべきである」。我が国初の内閣総理大臣であり、維新の元勲(げんくん)でもある伊藤だけにその発言は重く、伊藤が生きている間には韓国が併合されることはないだろうと考えられていました。しかし、その伊藤が、よりによって韓国人に暗殺されてしまうという悲劇が起こってしまったのです。
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しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違法性を認めずに密使の会議への参加を拒絶したことで、韓国は目標を達成できませんでした。高宗や密使らの当初の思惑とは裏腹に、国際社会が第二次日韓協約の正当性を認めたことにもつながったのです。
韓国の面従腹背(めんじゅうふくはい)ぶりが明らかになったことで、韓国は当時の国際社会の信頼を損なうと同時に我が国の激怒を招き、高宗は退位に追い込まれました。
そして同年に第三次日韓協約が結ばれ、韓国の内政権が完全に日本の管轄下に入ったことで、我が国による統治がさらに強化されることになりました。
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しかしながら、清国からロシアへと事大主義に走る韓国をそのままの状態にしておけば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅(おびや)かされるか分かったものではありません。
そこで、我が国は韓国の独立を保ちながら、軍事権や外交権などを握ることによって、韓国を「保護国」とする方針を固めました。我が国と韓国は、日露戦争中の明治37(1904)年に、日本による韓国防衛の義務などを明記した日韓議定書(ぎていしょ)を結ぶと、同じ年に、韓国政府の財政や外交の顧問に日本政府の推薦者を任命するとした第一次日韓協約を結びました。
日露戦争終結後の明治38(1905)年には第二次日韓協約(=日韓保護条約)を結び、韓国の外交権を我が国が持つことで、韓国は事実上我が国の保護国となりました。また、条約に基づいて首都漢城(かんじょう、現在のソウル)に統監府(とうかんふ)を置き、伊藤博文が初代統監となりました。
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ハリマンの申し出に対し、アメリカとの関係を重視した元老の井上馨(いのうえかおる)や伊藤博文、あるいは首相の桂太郎(かつらたろう)らが賛同しましたが、外務大臣の小村寿太郎が猛反対したことで、実現しませんでした。
ポーツマス条約を実際に締結した小村からすれば、多くの血を流して手に入れた満州の権益を、いかに共有とはいえ、むざむざとアメリカに譲り渡すことが我慢できなかったのかもしれません。
しかし、満州での権益を得られなかったアメリカは、この件を境に我が国への態度を硬化させ、翌1906(明治39)年にはサンフランシスコで日本人学童排斥(はいせき)事件が起きるなど、日本からの移民に対して厳しい政策を行うようになりました。
かくして、南満州鉄道の共同経営を巡(めぐ)って一度こじれた日米関係は、この後も好転することなく、日露戦争終結から36年後の昭和16(1941)年には、ついに両国が直接戦う運命となってしまうのです。悲しいかな、これも厳然たる「歴史の大きな流れ」なんですよね。
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日露戦争での勝利は、結果として我が国の国際的地位を高めることにつながりましたが、それを裏づけるかのように、明治38(1905)年にアメリカとの間で桂・タフト協定が結ばれ、アメリカのフィリピンにおける指導権と、日本の韓国における指導権をそれぞれ承認しました。
また、同じ明治38(1905)年には日英同盟が改定され、イギリスのインドに対する支配権と引き換えに、我が国の韓国への指導権をイギリスが承認しました。この他、ロシアと同盟していたフランスとの関係も良好なものとなり、戦争を経験したロシア自身との国交も修復されました。
我が国とロシアとは、明治40(1907)年から大正5(1916)年まで四次にわたって日露協約を結び、韓国における日本の権益をロシアが承認したり、満州や内蒙古(ないもうこ)の両国の勢力圏を確認しあったりするなど、お互いの利害関係を調整しました。
このように、日露戦争後に良化したと思えた我が国をめぐる国際関係でしたが、やがて利害の調整に失敗した国との関係が悪化していきました。それはアメリカのことです。
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明治維新を成しとげた人々が一線を退いて以降の我が国の迷走と、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の「協調外交」という名の「弱腰外交」によって大きく損なわれた国益、そしてなぜか教科書に真実が記載されない「借款(しゃっかん)」や「事件」などについて、参加者の多くの皆様が真剣に耳を傾けておられました。

次回(3月25日)は大阪講演を行います。多数の皆様にお越しいただけることを心より願っております。
第65回黒田裕樹の歴史講座 【大阪講演】
「日本外交史 その六」
主催:一般社団法人正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:平成30年3月25日(日) 午後2時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第1研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,500円(高校生以下は無料)
※大阪講演と東京講演の両方に参加された場合、大阪講演の資料代は無料とします。
参加をご希望の方は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば幸いです。当日の飛び入り参加も歓迎いたします。
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,500円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
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その一方で、敗れた白人国家は大きなショックを受けました。それまで当たり前のように拡大してきた植民地が、日露戦争以後は全く増えていないのです。
強国ロシアに勝った我が国に対して、敬意と畏怖(いふ)を感じた白人国家の多くは、日本を敵に回すよりも友好的な関係を築く道を選びましたが、そんな世界の流れに「待った」をかけた国が現れました。
その国こそが、かねてからアジアでの権益拡大を目指していたアメリカであり、日露戦争を境に、それまでの友好的な態度から一転して我が国への警戒を強め、やがては激しく対立するようになってしまうのです(詳しくは後述します)。
いずれにせよ、日露戦争は世界史上に燦然(さんぜん)と輝く20世紀最初の歴史的大事件でしたが、我が国の戦後の歴史教育において、日露戦争の世界史的意義がほとんど語られることがないのは残念でなりません。
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15世紀末のコロンブスによる新大陸の発見の頃から始まった大航海時代をルーツとして、白色人種の国家が世界の大陸を次々と侵略して植民地とするとともに、有色人種を奴隷(どれい)として支配するといった帝国主義が、20世紀初頭までの世界の常識でした。
しかし、我が国が日露戦争で勝利したことによって、この常識が根底から覆(くつがえ)されるとともに、それまで白人の支配に苦しめられていた有色人種の人々に、とてつもなく大きな希望を与えたのです。
「百聞は一見に如(し)かず」ということわざのように、日本の劇的な勝利を実際に目にした世界中の有色人種の人々が「ひょっとしたら自分たちにもできるかもしれない」とイメージするようになったのは、必然の流れでもありました。
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また、樺太・千島交換条約によってロシアの領土となった樺太も、南半分だけではあったものの取り戻せたことで、安全保障上において、我が国は戦争前より優位に立つことができたのです。
しかし、条約は良いことばかりではありませんでした。戦争における賠償金を、ロシアから一切もらうことができなかったからです。これは、早期の条約締結を優先した政府による苦渋の決断でもありましたが、我が国の優位を信じて疑わなかった日本国内における不満の声が高まりました。
講和条約が調印された明治38(1905)年9月5日に、東京・日比谷公園で講和反対国民大会が開かれましたが、勢いに乗った参加者が暴徒と化して、講和に賛成した新聞社や警察署などを次々と襲うという騒ぎになりました。これを「日比谷焼打ち事件」といいます。
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