こうして、朝鮮半島は日本・清国・ロシアの3か国がお互いに勢力争いをする舞台と化してしまったのですが、その背景には我が国から清国、さらにはロシアへと次々と接近することで、他国からの干渉を逃れようとする朝鮮政府の姿勢もありました。この三つ巴(どもえ)の争いは、まずは我が国と清国との間で決着をつけることになるのです。
明治27(1894)年、朝鮮の民間信仰団体である東学党(とうがくとう)の信者を中心とする農民が、朝鮮半島の各地で反乱を起こしました。これを「甲午(こうご)農民戦争」または「東学党の乱」といいます。清国が朝鮮政府からの要請に応じて派兵すると、天津条約に従って日本に通知したことで、我が国もすぐに朝鮮へ派兵しました。
日清両国の兵士によって反乱は鎮圧されましたが、両国は反乱後の朝鮮国内の内政改革を巡って対立し、ついに武力衝突してしまいました。「日清戦争」の始まりです。
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壬午事変と同様に、清国はまたしても朝鮮国内でのクーデターに軍事介入したことになります。さらに、クーデターに失敗した金玉均が我が国の公使館に逃げ込むと、清国の兵士が公使館を襲って焼き討ちし、女性を含む多数の我が国の民間人が殺害されました。
このような酷(むご)い仕打ちを受けた我が国でしたが、国力の充実を優先して清国との武力衝突を避ける意味も込めて、翌明治18(1885)年に、伊藤博文(いとうひろぶみ)が清国の李鴻章(りこうしょう)との間で天津(てんしん)条約を結びました。この条約によって日清両国は朝鮮から撤兵するとともに、将来出兵する際にはお互いに通知しあうことを義務づけました。
二つの事変を通じて、我が国は朝鮮を独立させようとしても、清国が宗主国の立場を利用して何度でも干渉してくるということをつくづく思い知らされました。
なお、金玉均は事変後に我が国に亡命しましたが、明治27(1894)年に上海(シャンハイ)で暗殺されています。また、金玉均に資金を援助した福沢諭吉は、甲申事変が起きた翌明治18(1885)年に「脱亜論(だつあろん)」を発表しています。
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omachi 歴史探偵の気分になれるウェブ小説「北円堂の秘密」を知ってますか。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索すればヒットし、小一時間で読めます。その1からラストまで無料です。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレに最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。
夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。
岡潔が後半生を暮らした奈良が舞台の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。
(日本史の好きな方には面白いと思います。)
しかし、この良好な関係は長続きしませんでした。開化政策に反対する勢力が国王の父であった大院君(だいいんくん)のもとに集まって、明治15(1882)年に大院君がクーデターを起こし、同時に朝鮮の日本公使館が朝鮮人の兵士に襲われ、館員らが殺されました。これを「壬午(じんご)事変」または「壬午軍乱」といいます。
この事件をきっかけに我が国が朝鮮へ出兵すると、清国も同時に派兵しましたが、我が国が朝鮮側と賠償などを取り決めた済物浦(さいもっぽ)条約を結んだことで武力衝突は回避されました。我が国は武力に頼らずに話し合いで解決しようとしたのですが、この姿勢が「日本は清国に比べて弱腰だ」とみなされたこともあり、この後の朝鮮国内では、我が国よりも清国に頼ろうとする事大派(じだいは)の勢力が強くなりました。
さて、壬午事変の際に、朝鮮の兵士が国際法上で我が国の管轄となる日本の公使館に危害を加えたことは、国際的にも大きな問題でした。朝鮮は謝罪の使者として金玉均(きんぎょくきん)らを我が国に派遣しましたが、そこで彼らが見たのは、自国とは比べものにならないほど近代的に発展した我が国の姿でした。金玉均らは、我が国がおよそ10年前に派遣した使節団が、欧米列強の発展に驚いたのと同じ思いを抱いたのです。
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約1年かけたイギリスとの交渉が実って、明治27(1894)年7月16日に両国は日英通商航海条約を結び、領事裁判権の撤廃や、最恵国待遇の相互平等および関税自主権の一部回復などに成功しました。
イギリスとの成功を受けて、陸奥は他の欧米列強とも同様の内容の条約を結び、それらはすべて明治32(1899)年に同時に施行(しこう)されました。そして、最後まで残った関税自主権の完全回復も、先の条約が期限を迎えた明治44(1911)年に、当時の外務大臣の小村寿太郎(こむらじゅたろう)によって達成されました。
かくして、我が国は安政の五か国条約を結ばされてから半世紀以上もの時間をかけて、ようやく欧米列強から、条約上において対等な国家として承認を受けることができたのですが、その背景には、憲法など諸法典を整備するとともに、後述する日清戦争や日露戦争に勝利して、我が国が世界に誇れる一等国として君臨(くんりん)するまでに成長したという大きな歴史の流れがありました。
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明治天皇はニコライをお見舞いされた際、皇太子が心を和ませるように親しく歓談されました。やがて怪我が回復したニコライが、ロシアの軍艦で神戸から帰国する際にも、陛下は京都から神戸まで列車で同行されました。
帰国当日、ロシア側から「天皇を軍艦に招待したい」との申し出がありましたが、我が国側で大問題になりました。なぜなら、大津事件の報復として、軍艦が明治天皇を乗せたまま出航する可能性もあったからです。万が一にも、陛下が拉致(らち)されるようなことがあっては取り返しがつきません。
しかし、明治天皇は「ロシアは先進文明国だから皆が心配するようなことをするはずがない」とご自身のご意思で軍艦へと行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)され、ロシア側の大歓待をお受けになられただけでなく、普段はそのようなご習慣がないにもかかわらず煙草入れをご持参なさり、お自ら皇太子に煙草をお勧めなさったそうです。
大津事件と言えば、先述のように「我が国における司法権の独立を守った」ことでも有名ですが、その陰には明治天皇のご誠実かつご迅速なご対応が相手の心を開かせ、結果として我が国存亡の危機を未然に防いだという事実を、私たちは決して忘れてはならないでしょう。
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当事者のロシアも、判決当初は「いかなる事態になるか分からない」と不服であったものの、明治天皇をはじめとする我が国側からの迅速(じんそく)な謝罪があったことや、イギリスやアメリカなどが上記の理由で我が国を高く評価したこともあって、賠償請求などの報復を一切行いませんでした。
大津事件は我が国にとって滅亡の危機をもたらしかねない大事件でしたが、事後の処置を誤らなかったことで、結果として我が国の国際的な地位を高めるとともに、その後の条約改正にも有利に働くことになったのです。
ただし、青木周蔵はロシアの在日公使に対して津田の死刑を密約しており、事件の責任を取って外務大臣を辞職したため、条約改正の交渉はまたしても延期となり、青木の後を継いだ榎本武揚(えのもとたけあき)も、具体的な交渉ができないまま外務大臣を辞任しています。
なお、司法権の独立を守った児島惟謙は、明治19(1886)年に大阪で開校した関西法律学校(現在の関西大学)の創設者の一人としても知られていますが、大津事件の解決に向けて大きな影響を与えたのは、児島惟謙だけではありませんでした。実は明治天皇のご存在もあったのです。
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通常の刑罰では津田を死刑にできないことに気づいた政府は、裁判所に対して皇族に対する罪である大逆罪(たいぎゃくざい)を類推適用するか、あるいは戒厳令(かいげんれい)や緊急勅令(きんきゅうちょくれい)を出してでも死刑にするように強く迫りました。
しかし、大逆罪はそもそも日本の皇族を想定してつくられており、同じ皇族といえども外国人にまで適用させるのは無理がありました。また、戒厳令のような非常の手段で死刑にしたとしても、「法に規定が存在しないのに無理やり死刑にした」ことに変わりはなく、近代的な法治国家をめざす我が国がとるべき手段ではありませんでした。
加えて、いくら国際問題に発展しかねないからといえ、政府が裁判所に刑罰を強要するという行為は、司法権の独立を揺るがす大問題であり、近代国家としては許されないものでした。
結局、当時の大審院長(現在の最高裁判所長官)であった児島惟謙(こじまいけん、または「こじまこれかた」)が政府の要求をはねつけ、犯人の津田に刑法の規定どおり無期徒刑の判決を下しました。
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そんな折の5月11日、琵琶湖を観光したニコライを乗せた人力車に対して、滋賀の大津で警備を担当していた巡査の津田三蔵(つださんぞう)が、突然ニコライに襲いかかりました。これを「大津事件」といいます。
ニコライは負傷したものの、生命に別条はありませんでしたが、大国ロシアの皇太子がよりによって警備中の巡査に襲われるという想定外の出来事に、国内は大パニックになりました。何しろ相手は大国ロシアであり、これを口実に攻めてこられれば、我が国は滅亡するしか道はありません。
事の重大さに対し、明治天皇は直ちに列車で京都へ向かわれ、療養中のニコライをお見舞いされました(詳細は後述します)。また、国民の中には「ロシアの皇太子様に申し訳ない」と京都府庁前で自害する女性まで現われました。
政府首脳も当然のように大混乱となり、ロシアの機嫌を損ねないためにも、犯人の津田を死刑に処すべきであるという意見でほぼ一致しましたが、それはできない相談でした。なぜなら、津田の犯した罪は「謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)」であり、当時の最高刑は無期徒刑(むきとけい、現在の無期懲役=むきちょうえき)だったからです。
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東アジアにおける権益を守るためには、日本が持つ軍事力を利用したほうが自国に都合が良いと判断したイギリスは、それまで条約改正交渉において対立関係にあった我が国に対して好意的になり、またこの頃までに大日本帝国憲法(=明治憲法)その他の諸法典が我が国で相次(あいつ)いで成立したこともあって、条約改正に応じる態度を見せるようになりました。
イギリスの軟化を受けて、外務大臣の青木周蔵(あおきしゅうぞう)が条約改正の交渉を進め、領事裁判権の撤廃を含めた我が国の改正案に、イギリスが同意するまでこぎつけました。
ところが、そのような大事な時期に、我が国の今後を揺(ゆ)るがしかねない大事件が起きてしまったのです。
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しかし、条約改正案の内容がイギリスの新聞であるロンドン・タイムズにすっぱ抜かれると、井上と同じように政府の内外で強い反対論が起きました。
なぜなら、大隈の改正案には「大審院(だいしんいん、現在の最高裁判所)に限って外国人判事を任用する」と書かれていたからです。いくら大審院に限定であっても、下級裁判所で外国人が判決を不服として上訴すれば、最後には大審院で裁かれることになり、井上案と同じ結果になるのは目に見えていました。
大隈の改正案を受けいれるかどうか、政府内で様々な議論が続けられましたが、そんな折の明治22(1889)年10月18日、大隈が閣議からの帰途(きと)で馬車に乗っていた際に、政治団体の玄洋社(げんようしゃ)の来島恒喜(くるしまつねき)が、大隈めがけて爆弾を投げつけました。
爆弾によって大隈が右足を切断するという重傷を負うと、これを機に条約改正の交渉は再び中断し、大隈も外務大臣を辞職しました。なお、大隈を傷つけた来島は、爆弾の炸裂(さくれつ)と同時に自決しています。
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