なぜなら、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組(しんせんぐみ)による池田屋事件などで多くの藩士を殺されていましたから、その恨みは深いものがありました。
会津藩は会津若松城(別名を鶴ヶ城=つるがじょう)に籠城して抵抗を続けましたが、肥前佐賀藩のアームストロング砲による激しい砲撃もあり、明治元(1868)年旧暦9月22日に降伏しました。この戦いを会津戦争といいます。
会津戦争には、平均年齢が16~17歳の男子で編成され、壮絶な自刃を遂げた白虎隊(びゃっこたい)などの悲劇のエピソードが多く残されています。なお、旧幕府軍の残存兵力は、仙台から蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の箱館(現在の函館)へと移動し、新政府軍との最終決戦が行われることになりました。
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