「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
山岡の気迫のこもった意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰まりました。やがて山岡の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着しました。
山岡は翌10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩(さつまはん)の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。
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