なお、いわゆる秀次事件に巻き込まれて秀吉の不興(ふきょう)を買った多くの大名が、関ヶ原の戦いで家康率いる東軍に所属しており、我が子可愛さが余っての秀吉による残酷な行為が、結果としてその後の豊臣家にとって逆らえない落日をもたらしたともいえそうです。
さて、その後約260年間続いた、江戸時代における豊臣家の扱いは不遇極まりないものでしたが、明治維新を迎えると名誉を回復し、京都や大阪など各地に豊国神社(とよくにじんじゃ、または「ほうこくじんじゃ」)が創建されるとともに、当時の大阪市長であった関一(せき・はじめ)氏が、昭和天皇の御即位記念事業として民間からの寄付を募ったことにより、昭和6(1931)年には大阪城の天守閣も再建されました。
晩年の朝鮮出兵の失敗がやや印象を悪くしているものの、乱れに乱れた天下を統一し、最終的には関白にまで出世した豊臣秀吉の一生は、その破天荒(はてんこう、今まで誰もしたことのないことをすること)ぶりが著しいですね。
外国の評価を気にすることもなければ、国内における謂(いわ)れなき批判に耳を傾ける必要もありません。私たちは日本人として、低い身分から関白へと「日本一出世をした男」の英雄譚(えいゆうたん)を、今後も堂々と子孫に伝え広めるべきではないでしょうか。
※下記の映像は11月14日までの掲載分をまとめたものです。
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