しかし、新政府は蝦夷共和国を認めず、雪解けを待って翌明治2(1869)年に攻め込みました。これを箱館戦争といいます。榎本らは陸海それぞれで戦いましたが敗れ、同年旧暦5月に土方は戦死し、榎本は新政府軍に降伏しました。
こうして、鳥羽・伏見の戦いから約一年半にわたって続けられた戦いは、新政府による国内統一というかたちで終止符を打ちました。これらの戦いを総称して戊辰(ぼしん)戦争といいます。箱館戦争で降伏した榎本は、投獄されたものの生命は助けられ、出獄後に新政府に登用されて、その後長く活躍しました。
ところで、幕末から戊辰戦争の終結までに、多くの尊い生命が犠牲となったことに心を痛められた明治天皇は、その御霊(みたま)を慰められるため、明治2(1869)年旧暦6月に東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)を創建されました。東京招魂社はその後、明治12(1879)年に靖国神社(やすくにじんじゃ)と改称され、国難に際して祖国に殉じた尊い英霊(えいれい)をお祀(まつ)りする神社として、現在に至っています。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なぜなら、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組(しんせんぐみ)による池田屋事件などで多くの藩士を殺されていましたから、その恨みは深いものがありました。
会津藩は会津若松城(別名を鶴ヶ城=つるがじょう)に籠城して抵抗を続けましたが、肥前佐賀藩のアームストロング砲による激しい砲撃もあり、明治元(1868)年旧暦9月22日に降伏しました。この戦いを会津戦争といいます。
会津戦争には、平均年齢が16~17歳の男子で編成され、壮絶な自刃を遂げた白虎隊(びゃっこたい)などの悲劇のエピソードが多く残されています。なお、旧幕府軍の残存兵力は、仙台から蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の箱館(現在の函館)へと移動し、新政府軍との最終決戦が行われることになりました。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
このうち、江戸の上野では彰義隊(しょうぎたい)が結成され、寛永寺に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が明治元(1868)年旧暦5月15日に総攻撃を加えました。これを上野戦争といいます。
戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単には決着しないと思われましたが、新政府軍が肥前佐賀藩(ひぜんさがはん)の所有するアームストロング砲などの最新兵器を活用したことで、戦いは一日で終わり、彰義隊は壊滅しました。
鳥羽・伏見の戦いと同様に、最新兵器の能力の高さを思い知らされる戦争となりましたが、敗れた彰義隊の残存兵力は東北地方などへ落ちのび、戦いはさらに続くことになりました。
なお、上野から少し離れた現在の東京都港区浜松町で、慶應義塾(けいおうぎじゅく)を開いていた福沢諭吉(ふくざわゆきち)が、遠くから聞こえてくる戦争の轟音(ごうおん)が響くなかでも、平然と自ら講義を続けていたというエピソードが残っています。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
この後、4月に江戸城は無血開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避したほか、人口が100万人を超えた、世界でも最大規模の都市であった江戸とその住民を、戦火に巻き込まずに済んだことには大きな意義がありました。
なぜなら、江戸が焼け野原となり指揮系統が寸断されることで、欧米列強の軍事的介入を招くこともなく、また江戸の都市機能がそのまま残ったことによって、新政府による首都移転がスムーズに行われるようになったからです(詳しくは別の機会に紹介します)。
江戸城の無血開城の立役者は、西郷隆盛や勝海舟と一般的には言われていますが、その西郷と事前に命がけで交渉を行った、山岡鉄舟の功績も見逃せません。現実に、西郷は山岡に対して以下のような賛辞を贈っています。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ、天下の偉業は成し遂げられないものだ」。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
山岡の気迫のこもった意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰まりました。やがて山岡の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着しました。
山岡は翌10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩(さつまはん)の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第63回)は「日本外交史 その四」と題し、江戸時代全体の外交の流れを詳しく紹介します。
なお、今回の大阪講演の会場が「関西大学梅田キャンパス」になりますので、お間違えのないようにご注意ください(アクセスはこちらです)。

(クリックで拡大されます)
講座に参加をご希望の皆様(特に東京講演においては関東在住の方々)は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば幸いです。当日の飛び入り参加も歓迎いたします。講座の内容については、これまでと同様に後日にはブログ上で映像とともに発表します。
第63回黒田裕樹の歴史講座
「日本外交史 その四」
主催:一般社団法人正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
【東京講演】
日時:平成29年11月25日(土) 午後3時より
場所:スター貸会議室 飯田橋 (会場は2階です)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,500円(高校生以下は無料)
【大阪講演】
日時:平成29年12月2日(土) 午後2時より
場所:関西大学梅田キャンパス KANDAI Me RISE 701号室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,500円(高校生以下は無料)
※大阪講演と東京講演の両方に参加された場合、大阪講演の資料代は無料とします。
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,500円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、明治元(1868)年旧暦3月9日に、官軍参謀の西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見させました。山岡は勝の手紙を西郷へ渡して、朝廷に取り計らうよう依頼しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突き付けました。
西郷の条件は、江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは、「徳川慶喜の身柄を備前藩(びぜんはん)に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも、絶対に受けいれられなかったのです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ところが、幕末の頃の水戸学は、「主君としてふさわしいのは、幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室である」とし、また欧米列強からのいわゆる外圧に対してはこれを排除すべきであるとする、いわゆる「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の考えが中心となっていました。
慶喜も当然のように水戸学を学んでおり、徳川家の将軍でありながら、皇室を尊敬する学問を幼い頃から身に付けていたため、自らが朝敵となることが、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも、絶対に認められないことだったのです。
こうした慶喜の姿勢が、一般的には「弱腰」と見なされることが多いのですが、逆から見れば、慶喜が朝廷と争わずに謹慎したからこそ、徳川家が滅ぼされることもなければ、欧米列強の介入を招くこともなく、また、後述するように、江戸の町を戦火にさらすことを防ぐこともできたのでした。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
戦いに勝利した新政府軍は、慶喜を正式に朝敵とみなし、征討軍を江戸へと向かわせました。この中には、赤報隊(せきほうたい)を結成し、年貢を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたものの、新政府から偽(にせ)官軍として処刑された相楽総三(さがらそうぞう)もいました。
江戸城に戻った慶喜は、幕臣の小栗忠順(おぐりただまさ)による徹底抗戦の意見を退け、フランス公使のロッシュの援助も断り、江戸城を出て、上野の寛永寺(かんえいじ)で謹慎しました。
いかに鳥羽・伏見の戦いで敗れたとはいえ、旧幕府を支持する兵力はまだ多く、今後の展開次第では軍事的勝利も十分考えられたはずなのに、なぜ慶喜は朝廷に対して恭順(きょうじゅん)の姿勢をとり続けたのでしょうか。
その背景には、慶喜に隠された「血の秘密」があったのです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
戦い当時の兵力は、旧幕府軍が15,000名に対して、新政府軍は5,000名しかおらず、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいました。しかし、いざ蓋(ふた)を開けてみれば、新政府軍の勝利に終わったのです。
新政府軍が勝利した大きな理由の一つとしては、旧幕府軍と比べて最新鋭の鉄砲などの火器が充実していたことが挙げられます。戦いはもはや兵力の多寡(たか)ではなく、いかに優れた火器を多く使用できるか、という点が重視されていたのでした。
さらにもう一つの大きな理由は、新政府軍が明治天皇から下賜(かし)された「錦(にしき)の御旗(みはた)」でした。戦場に錦の御旗が掲げられたということは、新政府軍が官軍となった一方で、旧幕府軍が賊軍、つまり朝敵(ちょうてき、朝廷にそむく敵のこと)になったことを意味していました。
そして、この厳然たる事実にもっとも敏感に反応したのが、前将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)だったのです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。