ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿易による権益の欲しさから宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、中には自らが洗礼を受けてキリシタン大名となるものも現れました。
キリシタン大名のうち、九州の大友宗麟や大村純忠(おおむらすみただ)、有馬晴信(ありまはるのぶ)らは、イタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、1582年に少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。これを、当時の年号から「天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)」といいます。
カトリックによる教えは、ヨーロッパの進んだ文化にあこがれたり、あるいは既存の仏教を中心とした宗教勢力が権益を求めて争い合う姿勢に不満を持ったりした人々の間で急速に広まっていきましたが、その一方でキリシタン大名の大村純忠が、信仰心のあまり自領の長崎をイエズス会に寄進(=神社や寺院などの施設に金銭や物品を寄付すること)するという前代未聞の行為も見られ、カトリックに潜(ひそ)む我が国侵略の野望は、水面下で確実に広がっていきました。
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イエズス会による布教活動は、イスパニアやポルトガルによる植民地政策と一体化して行われました。布教の拡大によって地元住民にカトリックを信仰させ、その後に「神の名の下(もと)に」侵略を仕掛けることで容易に目的を達成できるという、いわばお互いの利害が一致した結果でした。
我が国との南蛮貿易も、実は布教活動と一体化させていたのであって、1549年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。
ザビエルは鹿児島から京都にのぼった後、山口の大内義隆(おおうちよしたか)や豊後府内の大友宗麟(おおともそうりん、別名を義鎮=よししげ)らの大名の保護を受けてキリスト教(=カトリック)の布教活動を続けました。
なお、当時のキリスト教はキリシタン(=切支丹)、あるいは天主教(てんしゅきょう)と呼ばれています。
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当時の我が国では、ポルトガル人やイスパニア人のことを南蛮人(なんばんじん)と呼んだことから、彼らとの貿易を南蛮貿易といいます。
南蛮貿易は、先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料・生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。
また当時の貿易港としては、松浦氏(まつらし)の平戸や大村氏(おおむらし)の長崎、大友氏(おおともし)の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)など、九州地方が中心でした。
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手先が器用だった鍛冶(かじ)職人によって鉄砲がまたたく間に複製されると、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され、各地の戦国大名に売り込まれました。
鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきました。
ちなみに、ポルトガル人は鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で種子島にわざと漂着したのではないかとも考えられています。その野望は我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰(つい)えましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が、当時の我が国では生産されなかったことから、これを輸入することで貿易が成立することになりました。
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当時のイスパニアとポルトガルとの間には、15世紀末の1494年に、大西洋(たいせいよう)を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発見されるものはすべてイスパニアに属するという取り決めが、カトリックのローマ教皇(きょうこう)の承認によって結ばれました。これを「トルデシリャス条約」といいます。
地球をまるで饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのような、ある意味とんでもない発想ですが、これは当時の白人至上主義による人種差別に基づく当然の思想でもありました。そして両国は条約の取り決めを守りながら着実に植民地化を進め、その過程では南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産、さらに文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じていたのです。
一方、当時の東アジア地域では、明が倭寇(わこう)の鎮圧や密貿易の禁止のために海禁政策をとっていましたが、実際には明以外にも我が国や朝鮮・琉球・安南(あんなん、現在のベトナム)などの人々が幅広く中継貿易を行っていました。そして、ヨーロッパ人による東アジアの進出は、これらの中継貿易に参加することで、莫大(ばくだい)な権益を得ようとする目的もあったのです。
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大航海時代の先頭に立っていたのは、早くから絶対主義を形成していたイベリア半島の王国であるイスパニア(=スペイン)とポルトガルでした。両国は産業や貿易を保護して輸出を拡大し、国富(こくふ、ここでは国家の財産全体のこと)の増大を目指す重商主義に基づいて、植民地の獲得に力を注ぎました。
やがてイスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領して、ルソン島のマニラを根拠地としました。
一方、ポルトガルはインド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから明のマカオにも拠点を築きました。要するに、イスパニアは西廻(まわ)りで、ポルトガルは東廻りでそれぞれアジアに進出したことになります。
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やがて奥州の住人の中から、渡島半島に館(やかた)をつくって移住する人々も現れました。彼らはアイヌから和人(わじん)と呼ばれ、津軽の豪族である安藤氏(あんどうし)の支配に属していましたが、和人の相次ぐ進出は、次第にアイヌとの関係悪化をもたらしました。
アイヌは1457年に首長(しゅちょう)のコシャマインを中心に蜂起(ほうき)して和人の館を次々と攻め落としましたが、やがて渡島の領主であった蠣崎氏(かきざきし)によって鎮圧されました。この事件によって名を挙げた蠣崎氏は、江戸時代には松前氏(まつまえし)を名乗って蝦夷地を支配する大名となりました。
なお、この当時の和人の館は道南十二館(どうなんじゅうにたて)と呼ばれており、現在の函館市にある志苔館(しのりたて)が有名です。
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琉球は明との藩属国(はんぞくこく、明を宗主国とすること)の関係を保ちながら我が国とも国交を結び、海外貿易を盛んに行いました。これを琉球貿易といいます。
琉球貿易は、商船を南方のジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島にまで行動範囲を広げて、東アジアから東南アジア一帯の諸国間における中継貿易の方式で行われました。
具体的には、琉球の商船が南方から購入してきた蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、香料のこと)などを我が国の商人が買い取ったり、琉球船自らが博多まで乗り入れてもたらしたりしています。これらの商品は我が国によってチャイナや朝鮮へと転売されました。
首里の外港である那覇(なは)は、貿易における重要な国際港となって栄え、情緒豊かな琉球文化をもたらしました。なお、琉球王国の民俗の実態をうかがうことのできる史料としては、琉球の古い歌謡である「おもろ」が集められた、琉球における万葉集ともいわれる「おもろそうし」が知られています。
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日朝貿易は、1419年に朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃した「応永(おうえい)の外寇(がいこう)」によって一時は中断しましたが、その後も活発に行われました。
貿易では日明貿易での勘合をまねた「通信符(つうしんふ)」が用いられ、我が国からは銅や硫黄などの鉱産物や工芸品、あるいは後述する琉球(りゅうきゅう)貿易で入手した蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、香料のこと)が輸出されました。
また、朝鮮からは当時の我が国では生産されなかった木綿(もめん)が大量に輸入され、それまでの麻(あさ)に比べて保温性が高く作業衣料に適していたために、人々に広く利用されたことで生活様式に大きな影響を与えました。
しかし、朝鮮がやがて日朝貿易を厳しく統制したために、これを不満とする三浦に住む日本人と現地の役人との間で1510年に紛争が起きました。この「三浦(さんぽ)の乱」によって、日朝貿易は次第に衰退していきました。
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我が国と朝鮮との日朝貿易は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために、貿易船の数が非常に多くなりました。
このため、朝鮮は1443年に嘉吉条約(かきつじょうやく、別名を癸亥約定=きがいやくじょう)を結んで、対馬の宗氏(そうし)に貿易の統制権を与えたことによって、これ以降の朝鮮との貿易は主に宗氏を通じて行われるようになりました。
なお、李成桂が建国した朝鮮は、古代に存在した古朝鮮(こちょうせん)と区別するために「李氏朝鮮(りしちょうせん)」とも呼ばれています。
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