それでも、元軍の一部が幕府軍の守備の及ばない搦(から)め手から上陸し、博多の町に侵入して乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働きましたが、すぐに幕府軍に見つかって、街中で激しい戦いを繰り広げました。
一方の幕府軍も、夜になって周囲が真っ暗になると、夜陰にまぎれて敵船に乗りこんで火をつけ、あわてた敵兵を討ち取るといったゲリラ戦を敢行するなど健闘を重ね、戦いは膠着(こうちゃく)状態となりました。
そして7月1日(現在の暦で8月16日)、北九州方面を襲った大暴風雨によって、元軍の乗っていた軍船がことごとく破壊され、多くの兵が亡くなりました。戦意を喪失した元軍は高麗へと引き上げ、国内に残った兵も幕府軍の掃討戦によって討ち取られました。元軍との二度目のこの戦いは、当時の年号から「弘安(こうあん)の役」といい、文永の役とともに元寇と呼ばれています。
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元との再戦を決意した北条時宗は、異国警固番役を強化するとともに、全国の御家人に命じて博多湾沿いに石造の防塁である石塁を築き、元の再来襲に備えましたが、その際に時宗は、工事への参加に関して一切の妥協も反論も許さなかったそうです。
元軍の来襲という未曾有(みぞう)の国難に備えたわけですし、また武家政権の棟梁(とうりょう)としても当然の行動といえるかもしれませんが、このように政治や軍事において「断固たる決意を示す」ことが、後々に大きな影響を与えることは、今も昔も変わりません。
我が国の強硬な姿勢に対して、再び日本を攻める決断をしたフビライは、1279年に南宋を滅ぼすと、返す刀で1281年の5月から6月にかけて、兵数約14万人という前回の4倍以上の兵を、二手に分けて再び博多湾に差し向けました。
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やがて元軍は沖合に船を避難させると、何とそのまま高麗まで退却してしまったのです。この戦いは、当時の年号から「文永(ぶんえい)の役」と呼ばれています。
なお、これまでの通説では、季節外れの暴風が吹き荒れたことで元軍が退却したとされてきましたが、実際には、意外な抵抗を受けて怖くなった元軍や高麗軍が逃げ帰ったというのが真相であり、日本側の記録にも「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と残されています。
こうして文永の役を乗り切った我が国でしたが、フビライがこの一戦だけで侵略をあきらめるとは到底考えられません。今度は前回の何倍もの兵力をもって我が国に再び襲いかかるであろうことは誰の目にも明白であり、そのことが若き執権の北条時宗を悩ませました。
来日していた南宋の名僧の蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)らと相談した時宗は、やがて元軍と徹底的に戦う意思を固めましたが、この決断が最終的に我が国を救うことにつながるのです。
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また、助国や後の鎌倉武士の戦いぶりに対して、元軍の大将キントは「私は色々な国と戦ってきたが、こんなすごい敵と出会ったことはない」と驚き、絶賛に近い評価を下したそうです。なお、宗助国の御霊(みたま)は、長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)の小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)に現在も祀(まつ)られています。
壱岐・対馬を攻め落とした後に博多湾に集結した元軍の船団でしたが、その際に両島の人々を男女とも素っ裸にしたうえで、男は手に穴を開けて船縁(ふなべり)に吊るし、女は髪の毛で吊るしてあったという記録が日本側に残されています。およそ人間のすることとは思えません。
元軍の信じられないような仕打ちに対し、怒りに震えた我が国は、九州地方の御家人を中心に彼らと応戦しましたが、それまでの一騎討ちを中心とし、名乗りをあげてから攻め込む日本式の戦闘方法が元軍の集団戦法には通用せず、いきなり大量の矢を浴びてしまいました。
この他にも、いわゆる「てつはう」と呼ばれた爆発物に馬も武士も大いに戸惑うなど、元軍流の戦闘に不慣れな幕府軍は苦戦を強いられましたが、亡国の危機に際して、懸命に戦い続けた幕府軍の武力は決して元軍に引けを取らず、逆に彼らを追いつめることになるのです。
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出撃の約一時間半前に素晴らしい笑顔を写真に留めた彼らは、異口(いく)同音に「いまここで死ぬのが、自分にとって最高の生き方だ」と語っていたそうです。
13世紀の元寇から20世紀の大東亜戦争まで、700年の時空を超えて共通する、死地に赴(おもむ)く際の微笑みは、いったい何に由来するのでしょうか。それは、日本人の「たとえ我が身は滅んでも、魂は決して死なない」と思う死生観に由来しているのであり、いわば「悠久の大義」に生きたゆえの微笑みなのです。
だからこそ、助国たちや特攻隊員の方々は微笑みをたたえて死地に赴いたとともに、平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災の際に、一人でも多くの生命を救いたい、ただそれだけのために、危険を顧みずに現地へ向かわれた多くの自衛隊の皆さんの行動に対して、多くの日本人が、心の奥底に眠っていた大和魂の精神を目覚めさせたのです。
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わずか数百人の人口しかおらず、かつ武装もしていなかった両島の人々は、突然現れた元軍兵や高麗兵になすすべもなく蹂躙(じゅうりん)され、ありとあらゆる暴虐を受ける運命にありました。
しかし、その中で多勢に無勢を百も承知で、敢然と戦いを挑んだ対馬の武将もいました。その名を宗助国(そう・すけくに)といいます。助国は元軍の来襲を知るや、直ちに博多に早船を送り、急報を受けた大宰府は、夜を徹して早馬を鎌倉へと向かわせました。
宗助国ら八十騎の武士たちは、後に続く者を信じて、雲霞(うんか)のような元の大軍に斬り込み、壮絶な玉砕を遂げましたが、元軍を迎え撃った際に、助国の一族郎党全員が顔に笑みを浮かべていたと伝えられています。
助国たちは死に臨んで、なぜ笑みを浮かべていたのでしょうか。実は、同じように笑みを浮かべて国のために尊い生命を散らした人々がいました。大東亜戦争における神風特攻隊の隊員の皆さんです。
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当時の我が国を政治的に支配していた鎌倉幕府の対応としては、黙って元の服属国となることを受けいれるか、あるいは元との戦いを覚悟してでも服属を拒否するかの選択を迫られたわけですが、幕府には初めから「元には服属しない」という決断しか有り得ませんでした。なぜそういえるのでしょうか。
鎌倉幕府は、そもそも武力によって他の勢力を自分の支配下に置くことで成立していました。そんな幕府が、いかに強敵だからといって元に服属してその軍門に下ったとすれば、幕府以外の組織や武士団にはどのように映るでしょうか。
「鎌倉幕府は敵に対して尻尾を巻いて逃げた」ということになり、幕府のメンツが丸潰れになるどころか、権威が失墜(しっつい)して以後の支配に悪影響を及ぼすことは間違いありません。さらに付け加えれば、そもそも幕府の「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」が外国に服属することを選択すれば、その瞬間に将軍の権威は消失してしまうのです(この件は後で詳しく紹介します)。
当時の鎌倉幕府の執権は、同年3月に就任したばかりの北条時宗でした。このとき時宗はまだ18歳という若さでしたが、幕府の重臣たちと協議を重ねた末、国書に対する返書を黙殺するとともに、元の来襲を予想して、九州の御家人に異国警固番役(いこくけいごばんやく)を課し、沿岸の警備を強化しました。
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その後、我が国で鎌倉幕府が成立して間もない13世紀始め頃、大陸で金の支配下にあったモンゴル高原にテムジンがあらわれると、モンゴルは「チンギス=ハーン」と称したテムジンによって統一されました。チンギス=ハーンはその後も征服を続け、中央アジアから南ロシアに至る広大な地域を領有しました。
チンギス=ハーンの後継者であるオゴダイ=ハーンは遠くヨーロッパまで征服するとともに、1234年には金を滅ぼし、アジアから東ヨーロッパにまたがる大帝国を建設しました。チンギス=ハーンの孫のフビライ=ハーンは、チャイナを支配するために都を大都(だいと、現在の北京)に定めて国号を元と改め、朝鮮半島の高麗(こうらい)を服属させました。
要するに、中華大陸に広大な領土を持つ帝国が現れ、かつ朝鮮半島がその支配下に置かれたことによって、周りを海で囲まれた我が国といえども、他国からの侵略にさらされる危険性が高まったのです。
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しかし、その環境には「朝鮮半島に『強力かつ大陸の帝国の言いなりにはならない』独立国家が存在する」という条件がありました。なぜなら、大陸の支配者が朝鮮半島を自己の所有とした場合には、半島を経由して我が国を攻めやすくなってしまうからです。
このため、我が国は昔からチャイナや朝鮮半島との外交関係を非常に重視してきました。例えば、前回(第60回)で詳しく紹介したように、聖徳太子(しょうとくたいし)は朝鮮の高句麗(こうくり)や百済(くだら)と同盟を結んだうえで、隋(ずい)と対等外交を結ぶことに成功しました。
また、先述のとおり、白村江(はくすきのえ)の戦いで我が国が唐(とう)と新羅(しらぎ)との連合軍に敗れた後も、唐の反撃を恐れて対岸の警備を強化する一方で、朝鮮半島を統一した新羅と国交を回復させて、唐への牽制(けんせい)としていますし、明治期に我が国が日清・日露戦争を戦ったのも、当時の李氏朝鮮(後の大韓帝国)を清(しん)やロシアの侵略から防ぐことで、我が国の独立を守るためだったのが原因の一つでした。
我が国は、朝鮮半島を緩衝(かんしょう)地帯として巧みに独立を守り抜いてきたのですが、朝鮮が完全に他国の支配下に入ったことで侵略を受け、亡国の危機に立たされるという時期も存在しました。それこそが元寇だったのです。
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13世紀の世界は激動の時代でした。モンゴル高原にあらわれたチンギス=ハーンや彼の後継者によって、アジアから東ヨーロッパにまたがる大帝国が誕生したからです。さらにはチンギス=ハーンの孫のフビライ=ハーンによって、中華大陸や朝鮮半島まで支配され、国号を「元」に改めたフビライは、ついに我が国に服属を求めてきました。
しかし、若き権力者であった鎌倉幕府8代執権の北条時宗(ほうじょうときむね)が、これらの圧力に一切屈せず、元との2度にわたる戦いを制し、神代から続く我が国を守り抜いたのです。
北条時宗がここまで戦う意思をあらわにしたのはなぜでしょうか。また、大帝国たる元軍の日の出の勢いを、なぜ当時の我が国がはね返すことができたのでしょうか。
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