皇帝は周辺民族の長に対して自己に従うことを求め、逆らえば有無を言わさずに滅ぼしました。こうした力関係のもとで、服属した長には「王」などの称号を与えて現地の支配を認めるかわりに、自己を支配者として尊敬させる(=君臣関係を結ぶ)とする、いわゆる「朝貢(ちょうこう)関係」を強制しました。
このような体制を「冊封(さくほう)」といい、古代の東アジアの国際秩序たる「華夷(かい)秩序」が構成されたと考えられています。そんな古代のチャイナの歴史書には、我が国の小国が様々な外交を展開したことが記されています。
例えば、前漢の歴史を述べた「漢書地理志(かんじょちりし)」によれば、紀元前1世紀頃の「倭人(わじん)」社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡(らくろうぐん)に使者を送ったとされています。楽浪郡とは朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地(ちょっかつち)でした。
なお、「倭」はチャイナから見た当て字で、なぜ我が国にその名がつけられたかについては様々な説があり、日本人が大切にする「和」から伝わったとも考えられています。「倭」には本来悪い意味が込められているとされており、仮にそうだとすれば、中華思想による差別意識が感じられますね。
※下記の映像は6月5日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに漢字一つを取り上げても
読みは一緒でも
その漢字の意味は違いますものね。
そう言う所でもチャイナの
陰謀が伺えますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回の話はあくまでも可能性の一つではありますが、中華思想の流れからすると、信憑性が高いとも思われますね。