大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争あるいは日露戦争よりももっと勝てる可能性の高かった戦争だったともいえるのであり、実際にそのような見解も存在しています。
今回のように大きな歴史の流れを見てゆくと、日清・日露両戦争当時と比べ、大東亜戦争においてはいかに我が国の政治家も軍人も、その中枢(ちゅうすう)の人材が払底(ふってい)あるいは堕落(だらく)し、自壊するように負けていったかということがよく分かります。
我が国の未来のためにも、単なる「戦争は良くない」という否定的な見解のみに終始するのではなく、今回のような「大東亜戦争で我が国が勝てなかったのは何故なのか」ということこそが、歴史教育で学ばねばならない重要な課題ではないでしょうか。
「あの戦争は勝てたのではないか」という観点を、我々は絶対に見失ってはならないのです。
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青田です。 青田です。
この当時の日本の陸海軍は、史上最強でした。
しかし、戦略が、無茶苦茶です。
この当時の日本の指導者は、馬鹿すぎます
。
日露戦争の時は、日本VSロシアであり、戦場もシナ大陸だけでした。
しかし、大東亜戦争は、日本vs24ヵ国。
戦場の面積は、地球の4分の1です。
ぴーち こんばんは!
仰る通り、どうして勝利出来なかったのだろうという
事を反省する中には
やはり我が国にも傲慢な一面が存在したことを猛省し、出る杭は打たれるという現実を重く受け止め
これからの行く末に加点されていくべき点を
考慮しながら前進して行きたいものです。
青田さんへ
黒田裕樹 仰る面を含め、すべてにおいて、勝てる戦を負けに追い込んでしまいましたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
我が国は大東亜戦争に関して、真剣に再検討する必要があります。
それこそが世界平和への貢献でしょう。
例えば、陸軍大将でもあった東條英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東條首相は後に陸軍の軍令機関のトップである参謀総長も兼任して、何とかリーダーシップを一元化しようとしましたが、海軍の軍令機関のトップたる軍令部総長に就任できない以上は同じことでした。
かくして、我が国では終戦を迎えるまで、戦争終結への外交努力に欠かせない「政略」がないがしろにされたのみならず、陸軍と海軍との意見を調整できる人物や機関が存在しないことで「戦略」すらままならない状況が続いたのです。
すなわち、統帥権干犯問題で実権を握ったはずの軍部自身が動きを封じられたのみならず、最後には国家の統治機関の中心部にまでその影響が及んでしまったばかりか、戦争終結へ向けての「政略」が何もなされぬまま、我が国の戦局が暗転したことで、苦しい状態が続いていた我が国がさらに追い込まれてしまうようになるのです。
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ぴーち おはようございます!
なるほど、
一つの体に頭が2つ。
双頭同士がそれぞれ同じ目的を持って
協力し合うのならまだしも
互いが相反する方向へ移動しようとすれば
体は動きを止められて立ち往生して
しまいますよね。
足並み揃えてこそ、相手に勝利することが
出来るというものを・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。そうした体制を、軍部自身が築き上げてしまったところに、当時の大きな不幸がありました。
なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして我が国では軍部の独走を事実上誰も止められなくなってしまいました。
軍部の独走はやがて昭和7(1932)年の五・一五事件や昭和11(1936)年の二・二六事件といった大事件をもたらし、また軍部大臣現役武官制が復活したことによって、首相が陸海軍大臣の意向を無視できなくなるなど、我が国の政治は事実上軍部に乗っ取られた状態と化しました。
これでは戦争遂行のための「戦略」を練ることはともかく、外交努力などの「政略」が期待できるわけがありません。結局、我が国は大東亜戦争で戦況が有利なうちに、講和への道を探るための何のイニシアチブも取ることができませんでした。
しかも、こうした問題の根幹となった統帥権干犯は、さらなる悲劇を我が国に及ぼしていったのです。
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ぴーち こんばんは!
それぞれの役目が何処かで
ストップしてしまえば
生き残ったものが暴走して歯止めが効かなくなる
車で言えば
軍はアクセルで、政府はブレーキと行った所でしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 軍はアクセルで、政府はブレーキと行った所でしょうか?
なるほど、上手な例えですね。
ブレーキが利かなくなった軍部は、さらなる独走を始めることになります…。
しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶えており、元老の権威が必然的に低下したことで、彼らが推薦して組織された内閣の指導力も同時に低下したのみならず、大日本帝国憲法(=明治憲法)の制定時には予期していなかった大きな問題が起きました。いわゆる統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)のことです。
大日本帝国憲法の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれており、条文を素直に読めば「統帥権(=軍隊を指揮する権利)は天皇のみが有する」という規定だとも読めますが、もちろん実際に天皇ご自身が指揮を取られることはありません。
そもそも一国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名のもとに内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃の一つでしかありませんでした。
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ぴーち おはようございます!
大東亜戦争の時には
いかにも天皇が全ての判断をなさって
采配していたかのような印象が有りましたが
実際問題としては軍部が天皇の名を借りて
操作していた訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 図式としては仰るとおりです。
そして、その軍部ですら、実際には…ということになります。
我が国が日露戦争で勝利できたのも、この「大原則」に従ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアとの開戦前から講和への道を探っていました。
日露両国に対して中立的な立場であったアメリカを我が国が仲介国に選び、当時のセオドア=ルーズベルト大統領と親交のあった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣したり、明石元二郎(あかしもとじろう)による諜報(ちょうほう)活動が成果を挙げたりするなど、我が国は少しでも自国に有利な展開になるように、あらゆる努力を重ねました。
開戦前から講和への道を探るなど「政略」を練った政府と、現場において命がけで戦い続けた「戦略」担当の軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことが可能となったのです。
戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、日露戦争はそれを実現できた代表例だったのですが、日露戦争と大東亜戦争とで大きな違いが出来てしまったのはなぜでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
確かに
始めることよりも
終わらせる事の方が重要かも知れませんよね。
政府と軍部との間の連携になにやら
秘訣がありそうですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 政府と軍部との間の連携になにやら
> 秘訣がありそうですね!
さすがはぴーちさん、鋭いですね。
次回以降の更新をぜひご覧ください。
このまま戦いを続ければ、国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩まされたロシアがアメリカの仲裁を受けて講和に応じたことで、我が国は辛くも勝利を収めることができました。
つまり、アメリカの仲裁やロシアの政情不安があったからこそ、我が国は日露戦争を制することができたともいえるのですが、勝利をもたらした背景には何があったのでしょうか。
実は、政治力による「政略」なのです。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、言い方は悪いですが
日本はアメリカに弱みを握られて
いた事で今回の様な戦争にまで
発展して行った訳ですか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日露戦争に我が国が勝利したことでアメリカが警戒しだしたのは間違いないですが、今回の件のみが弱みではないと思われます。
むしろ、我が国側の問題になりますね。
大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を続け、開戦後わずか半年で、アジアにあった欧米列強の植民地のほとんどを占領あるいは支配し、石油などの重要資源も確保しました。
もし我が国が優勢な段階でアメリカなどの連合国と講和が出来れば、その後の歴史が大きく変わったことは間違いありませんが、果たしてそれは可能だったのでしょうか。
大東亜戦争より前に、我が国は圧倒的な国力の差がある相手と戦った経験がありました。もちろん日露戦争のことです。
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ぴーち こんばんは!
圧倒的な国力の差で勝利した余韻を残したまま
大東亜戦争にも勝利するのでは無いかという
皮算用が悲劇を産んだとも考えられるでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 圧倒的な国力の差で勝利した余韻を残したまま
> 大東亜戦争にも勝利するのでは無いかという
> 皮算用が悲劇を産んだとも考えられるでしょうか?
なるほど、仰るような「勝利感覚」が抜けなかった、という観点も重要ですね。
詳細はこれから更新してまいります。
しかも、先述したケロッグ国務長官の「経済封鎖は戦争行為そのものである」という言葉を借りれば、先の石油禁輸の例を出すまでもなく、ハル・ノートによってアメリカは我が国に対して侵略戦争を先に仕掛けたも同然であり、我が国が対米開戦に踏み切ったのも無理からぬことではありました。
ハル・ノートを突き付けられた東條内閣は、半年以上続けてきた日米交渉を断念し、昭和16(1941)年12月1日の御前会議において、ついに「開戦のご聖断」が下りました。なお、戦争開始の閣議決定の裁可を求められた昭和天皇は、ご自身のお気持ちを封印され、立憲君主制に基づく大日本帝国憲法の規定どおりにお認めになられました。
昭和天皇のご意志であった「対米戦争回避」を実現できなかった東條首相は、開戦日(12月8日)の未明に首相官邸の自室において、皇居に向かって号泣しながら、陛下にお詫びをしたと伝えられています。
一般的な歴史認識においては「東條英機こそ日本を戦争に巻き込んだ重大な戦争犯罪人である」とされることが多いですが、前任の第三次近衛内閣が「戦争の決断をしたくない」とばかりに無責任に政権を投げ出した後に国論をまとめ上げ、ギリギリまで戦争回避に努力したという「歴史の真実」を、私たちはどのように評価すべきでしょうか。
※下記の映像は4月23日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
昨日の毒気についてですが、
我が国の大多数の人間が
間違った教えに従っている状態である事です。
それ故に本来人間を護るべき諸天から見放されてしまっていて無防備状態である為に
最悪な事態に陥ってしまうのです。
この原理をお信じになるかどうかはわかりませんが
事実はそう言う事です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういうことですね。
有難うございます。
しかし、いわゆるハリマン問題などを原因としてアメリカとの間に出来た溝は、やがて人種差別に基づく日本人敵視政策を生みだし、また昭和初期のアメリカやイギリスなどによるブロック経済は、世界との貿易で生計を立ててきた我が国に大きな打撃を与えました。
さらに、巨大な共産主義国家であったソ連による軍事的あるいは思想的脅威は、我が国の内外に大きな刺激を与え、関東軍による満州事変から満州国建国への流れを導くとともに、大日本帝国憲法(=明治憲法)の大きな欠陥であった「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題」が、軍部の独走をもたらしました(詳しくは後述します)。
加えて、日華事変の泥沼化が我が国の体力を徐々に奪ってきたところへ、日独伊三国同盟や北部仏印進駐などをきっかけにABCDラインが引かれ、資源を求めて合法的な南部仏印進駐を行えば石油禁輸となり、それでも粘り強く対米交渉を行えば、ハル・ノートを一方的に突き付けられました。
かくして、命綱でもあった石油の入手経路を完全に断たれたばかりか、国家としての存続も風前の灯となってしまった我が国は、自衛のための最終手段として、日米開戦の選択肢しか残らないという状況に追いつめられてしまったのです。
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ぴーち こんばんは!
何とも
怒涛の如く
悪循環のスパイラルにはめられていった様子が
分かりますね(^_^;)
最終的にその道を選ばざるをえない状況に
導かれるというのは、仏法的な解釈ですと
如何に日本が
謗法の毒気にまみれた国であるかが
窺い知れます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仏法的な解釈ですね。
この場合、毒気はコミンテルンの策謀なのか、それともアメリカの横やりか。あるいは我が国の至らなさか…。
もしハリー=ホワイトが本当にソ連のスパイであったとすれば、彼がフランクリン=ルーズベルト大統領に取り入ったことで日米間に埋めようもない深い溝を構築し、日米開戦を誘発したことになりますが、果たしてソ連にそのようなメリットが存在したでしょうか。
アメリカはかねてから東アジアにおける権益を狙っており、そのための障害となっていた日本を敵視し続け、日米開戦によって、ついに我が国を中国大陸などから駆逐(くちく)することに成功しましたが、我が国の後釜としてソ連と同じ共産主義国家の中華人民共和国が成立したことなどで、戦後にアメリカが得た「果実」はほとんど存在せず、さらに日本の弱体化によって、東アジアは当時の東ヨーロッパと並んで世界で最も「赤化」した地域となってしまったのです。
こうした歴史的事実を鑑みれば、ルーズベルト大統領の夫人が共産主義に憧れていたように、アメリカの大統領近辺にまでソ連のスパイが暗躍していたという説は、十分に成立すると言えるのではないでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
アメリカという国が無防備なのか
或いはソ連がそれを上回る強者なのか・・
存じませんが、
事実、共産主義はジワジワ浸透していったんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この場合は、大統領自身とその近辺を完全に抑えたコミンテルンの策謀の巧みさに軍配が上がるでしょうね。