なお、事変後に閔妃は大院君によって身分を剥奪(はくだつ)され平民に落とされましたが、後に我が国からの助言もあって王位を回復しています。
乙未事変後に、朝鮮改め韓国(=大韓帝国)がロシアとの結びつきをますます強めたことで、やがてロシアが朝鮮半島を足掛かりとしてしきりに我が国に圧力をかけるようになりました。
韓国ばかりでなく、自国の命運も風前の灯となった現状では、我が国の取るべき道は、もはや一つしかなかったのです。
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ぴーち こんばんは!
韓国の味方をするわけでは有りませんが
自国をただの踏み台代わりに思われては
侮辱極まりなしですね
まだ敵国として見なされた方がどれだけ
精神的には良かったかも知れません。
かと言って、互いが安易に交戦状態に陥るのを
歓迎している訳では有りませんが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 自国をただの踏み台代わりに思われては
> 侮辱極まりなしですね
これについてはごもっともです。
ただ、自国をそういう立場に追い込んだのは、果たして他国のみにその責任があるのか、という点も重要かと思います。
閔妃に直接手を下したのは同じ朝鮮人の訓練隊の兵士でしたが、いかなる理由があろうとも、一国の外交官が駐在国の王族暗殺に関わった可能性があるという事実はテロ以外の何物でもなく、極めて乱暴な行為に他なりません。
閔妃の暗殺を知って驚いた日本政府は直ちに関係者を逮捕するなどの素早い処置をとったこともあって、乙未事変は当時の大きな国際問題にはなりませんでした。
乙未事変が大きな問題にならなかった背景には、朝鮮半島内において、かつての壬午事変や甲申事変などで多数の日本の民間人が殺害されていたこともありますし、また乙未事変後に朝鮮国王の高宗がロシア大使館に移った際にも、多くの日本人が巻き添えとなって殺されています。
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ぴーち こんばんは!
なるほど
そう言う犠牲という大きな代償が教訓となっていたのですね。
切ない話です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、切ない話です。
だからこそ、記憶に残さねばなりません。
当時の正確な背景を
青田です。 青田です。
こういう話を聞くと多くの日本人は、その当時の韓国が
今、韓国時代劇のような国(捏造されていますが)という
前提で、考えてしまいます。
ただ、このあたりは、活字ではなく、当時の写真を観ると
納得できます。
その当時の韓国では、政府はありましたが、社会自体は、日本の弥生時代のような生活でした。
その前提で、この事実を知らないと理解できないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
いつまでも真実を隠しておくわけにはいきません。
ロシアからの理不尽な要求に対して我が国は激怒しましたが、巨大な三国に対抗するだけの軍事力を持っているはずがありません。我が国はやむなく要求を受けいれたのですが、ロシアに対する我が国の低姿勢ぶりが「弱腰」と思えたことで、朝鮮政府が今度はロシアへと接近していきました。
このような「自分よりも大きくて強い国に自国を委(ゆだ)ねる」という事大主義が、朝鮮政府内のいわゆる親露派の動きを強めることになりましたが、その最たる存在が朝鮮王妃の閔妃(びんひ)でした。
閔妃によって朝鮮が親露政権と化し、ロシアが朝鮮に対して影響力を強めれば、日清戦争以前の清の立場がそっくりそのままロシアに移動することになりますから、これでは我が国が何のために大勢の犠牲者を出してまで日清戦争を戦ったのか分からなくなってしまいます。
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ぴーち こんばんは!
自国の思い通りにさせたいという野望があれば
どんな事でもマイナス要素と見なして
蹴落とす事を考えるものですよね。
どんなにこちらが正論を述べても
ただただ相手のせいにして
卑怯な手口も厭わない所は
どの国からも嫌われる心貧しい
国なのではないかと思います。
結局は、何も変わってないような。。
青田です。 青田です。
今の韓国も同じような気がします。
親米かと思えば、親中のような気がします。
挙句の果てに、次期大統領候補は、親北朝鮮です。
外交、同盟とは、力関係もあるとは、思いますが、
イデオロギーが違いすぎても、その時の強い国になびくと
結局は、自国の主体性を失くし、国力を弱くすると思うのですが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > どんなにこちらが正論を述べても
> ただただ相手のせいにして
> 卑怯な手口も厭わない所は
> どの国からも嫌われる心貧しい
> 国なのではないかと思います。
このような国家が存在していた(もしくは存在している)事実を、日本国民はしっかり理解すべきだと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 自主性を持たない国家は、確かにそうなる運命にあるでしょうね。
朝鮮はやがて1897(明治30)年に大韓帝国と国名を改め、国王の高宗が初代皇帝となりました。それまでの宗主国であった中国しか使えなかった「皇帝」の称号を初めて使用できるようになった歴史的な意義は、世界史上においても極めて大きいものがあったといえるでしょう。
しかし、朝鮮改め韓国にとっては、独立を脅(おびや)かす別の大きな問題がありました。清国が手を引いた代わりに、大国ロシアが朝鮮半島に触手(しょくしゅ)を伸ばしてきたのです。そのきっかけは、我が国がロシアから受けた「屈辱(くつじょく)」にありました。
下関条約によって、朝鮮半島の北西に位置する遼東(りょうとう)半島を我が国が領有することが認められたのですが、東アジアに領土的野心を持っていたロシアにとって、このことは非常に困る問題でした。それを見越した、清国の李鴻章が、ロシアに働きかけて、遼東半島を清国へ取り戻そうと考えたのです。
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ぴーち おはようございます^^
朝鮮・・
どうなんでしょう。。
これも大陸住む国民の性なのでしょうか・・?
まあ、多かれ少なかれ
野望の強い国に国土を狙われるのは
他の国も常に孕んでいる事なのでしょうけれど
相手国にとって何かと条件の良い国ほど危機に見舞われる
可能性が大という事なのでしょうね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 相手国にとって何かと条件の良い国ほど危機に見舞われる
> 可能性が大という事なのでしょうね(^_^;)
自国にとって有利なことは、他国にとっては不利なことです。
この点をしっかり踏まえないと、足元をすくわれますからね。
清国側の主張が「朝鮮は我が大清国に属して200年になるが、毎年我が国に朝貢している」と書かれているのに対して、日本側は「朝鮮は我が国が誘って列国に加わらせた独立国であるにもかかわらず、清国は常に朝鮮を自分の属国として内政に干渉し続けている」と書いてあるのです。
要約すれば、朝鮮を自国の属領にしようとする清国と、独立を助けようとする日本との間で日清戦争が起きたわけですから、もしこの戦いに「義」があるとすれば、清国と我が国のどちらの方に存在するといえるでしょうか。
さて、日清戦争は結果として我が国の勝利に終わり、翌明治28(1895)年に下関条約(しものせきじょうやく)が結ばれました。この条約には様々な事項がありますが、もっとも重要なのは「清国が朝鮮を独立国として認める」ということでした。
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ぴーち こんばんは!
やはり
自国だけの利を求めるような
政策は直ぐに破れてしまうものなのでしょうね。
現在の
どこぞのお国の行く末も
そうならないようにして貰いたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
どこぞのお国の今後はどうなるでしょうか?
こうして、朝鮮半島は日本・清国・ロシアの3ヵ国がお互いに勢力争いをする舞台と化してしまったのですが、その背景には我が国から清国、さらにはロシアへと次々と接近することで、他国からの干渉を逃れようとする朝鮮政府の姿勢もありました。この三つ巴(どもえ)の争いは、まずは我が国と清国との間で決着をつけることになるのです。
明治27(1894)年、朝鮮の民間信仰団体である東学党(とうがくとう)の信者を中心とする農民が、朝鮮半島の各地で反乱を起こしました。これを甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)、または東学党の乱といいます。清国が朝鮮政府からの要請に応じて派兵すると、天津条約に従って日本に通知したことで、我が国もすぐに朝鮮へ派兵しました。
日清両国の兵士によって反乱は鎮圧されましたが、両国は反乱後の朝鮮国内の内政改革を巡って対立し、ついに武力衝突してしまいました。日清戦争の始まりです。
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ぴーち こんばんは!
互いの体を傷つけ合う戦争を好む
信仰など宗教でもなんでも有りませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 互いの体を傷つけ合う戦争を好む
> 信仰など宗教でもなんでも有りませんよね。
仰るとおりだと思います。
人を助ける道が戦争につながるなど…。

「朝鮮も早く近代化しなければならない」。そう強く感じた金玉均らは、福沢諭吉(ふくざわゆきち)から資金の援助を受けた後、明治17(1884)年に独立党(どくりつとう)として朝鮮国内でクーデターを起こしましたが、清国が事大党(じだいとう)への支援を口実に再び出兵したため失敗に終わりました。これを甲申(こうしん)事変といいます。
壬午事変と同様に、清国はまたしても朝鮮国内でのクーデターに軍事介入したことになります。さらに、クーデターに失敗した金玉均が我が国の公使館に逃げ込むと、清国の兵士が公使館を襲って焼き討ちし、女性を含む多数の我が国の民間人が殺害されました。
このような酷(むご)い仕打ちを受けた我が国でしたが、国力の充実を優先して清国との武力衝突を避ける意味も込めて、翌明治18(1885)年に、伊藤博文(いとうひろぶみ)が清国の李鴻章(りこうしょう)との間で天津条約(てんしんじょうやく)を結びました。この条約によって日清両国は朝鮮から撤兵するとともに、将来出兵する際にはお互いに通知しあうことを義務づけました。
二つの事変を通じて、我が国は朝鮮を独立させようとしても、清国が宗主国の立場を利用して何度でも干渉してくるということをつくづく思い知らされました。
なお、金玉均は事変後に我が国に亡命しましたが、明治27(1894)年に上海(シャンハイ)で暗殺されています。また、金玉均に資金を援助した福沢諭吉は、甲申事変が起きた翌明治18(1885)年に「脱亜論(だつあろん)」を発表しています。
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ぴーち こんばんは!
そうでした!
今日は竹島の日でしたね!
つい
猫の話題に持ち込みたく成る根性は
昔から変らない私(^_^;)
それにしても
クーデターを起こさせてまでも
近代化を推し進めようとする
朝鮮の思わくには賛成出来ませんね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、どちらも大事な日ですので(笑)。
そういえば、「忍者の日」でもあるそうですね。
クーデターをおこさないと国内を改革できないと思ったのでしょうけど、失敗に終わってしまいましたからね。
しかも我が国の罪もない人々が巻き添えを食らって殺されていますし…。
しかし、この良好な関係は長続きしませんでした。開化政策に反対する勢力が国王の父であった大院君(だいいんくん)のもとに集まって、明治15(1882)年に大院君がクーデターを起こし、同時に朝鮮の日本公使館が朝鮮人の兵士に襲われ、館員らが殺されました。これを壬午(じんご)事変といいます。
この事件をきっかけに我が国が朝鮮へ出兵すると、清国も同時に派兵しましたが、我が国が朝鮮側と賠償条約(済物浦条約=さいもっぽじょうやく)を結んだことで武力衝突は回避されました。我が国は武力に頼らずに話し合いで解決しようとしたのですが、この姿勢が「日本は清国に比べて弱腰だ」とみなされたこともあり、この後の朝鮮国内では、我が国よりも清国に頼ろうとする事大派(じだいは)の勢力が強くなりました。
さて、壬午事変の際に、朝鮮の兵士が国際法上で我が国の管轄となる日本の公使館に危害を加えたことは、国際的にも大きな問題でした。朝鮮は謝罪の使者として金玉均(きんぎょくきん)らを我が国に派遣しましたが、そこで彼らが見たのは、自国とは比べものにならないほど近代的に発展した我が国の姿でした。金玉均らは、我が国がおよそ10年前に派遣した使節団が、欧米列強の発展に驚いたのと同じ思いを抱いたのです。
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ぴーち こんばんは!
日本の発展ぶりに驚いた訳ですか・
日本は島国ですので、隔離されている感は否めませんし
今でもそうですが、外国にアピールしていく
力も弱いのでそう言う意味では
何事も多少オーバー気味に声を大きくしていかないと
伝わらない事が多そうですよね。(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
その一方で「百聞は一見に如かず」と言いますから、見てもらうことが一番効果があるともいえそうです。
ところで、一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対し、欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や、歴史的な意義を見出すことができません。
確かに日朝修好条規には、朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を治外法権)が認められていましたが、これは江戸時代からの慣習をそのまま成文化したものですし、また関税自主権については、日朝両国がお互いに関税をかけないという取り決めをしているところが、他の不平等条約とは全く異なっています。
それよりも重要なのは、日朝修好条規の第1条で「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等な権利を有する」と書かれていることです。これは、我が国が朝鮮を独立国と認めたことを意味しており、当時の世界諸国が朝鮮を「清国の属国」としか見ていなかったことからすれば、非常に画期的なことでした。
日朝修好条規は朝鮮が初めて自国で結んだ国際条約であり、この条約が結ばれたことで欧米列強も次々と朝鮮と条約を結びました。その内容は我が国が欧米列強と結んだのと同様に不平等でしたが、欧米列強が朝鮮を独立国として認めていることも意味していたのです。
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ぴーち こんばんは!
日本の働きかけの影響が
こんなにも世界中に影響が広がって行ったと言う事に、誇りを感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本の働きかけの影響が
> こんなにも世界中に影響が広がって行ったと言う事に、誇りを感じました。
そうですよね。
我が国が世界の流れを大きく変えたという事実は動きませんから、誇るべきだと思います。
もっとも、西郷のような政府の重鎮が朝鮮に出向いて万が一のことがあれば、朝鮮とはそのまま戦争状態となってしまうのは明らかでした。結局、征韓論は明治6(1873)年に欧米列強の外遊から帰国した大久保利通(おおくぼとしみち)らが反対したことで瓦解(がかい)し、敗れた西郷らが政府を下野(げや)しました(これを「明治六年の政変」といいます)が、大久保らの反対にも大きな理由がありました。
当時の政府には「一日も早く近代国家となって欧米列強に追いつかなければならない」という大きな目標がありました。そのためには富国強兵(ふこくきょうへい)や殖産興業(しょくさんこうぎょう)を目指さなければならず、朝鮮へ派兵する余裕は全くなかったのです。
とはいえ、朝鮮との国交も急がなければなりません。そんな折に、我が国と朝鮮との間で一つの事件が発生しました。
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ぴーち こんばんは!
朝鮮とどのような事件が起きたのでしょうか・・
西郷さんの手腕が問われる一件だったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 朝鮮とどのような事件が起きたのでしょうか・・
> 西郷さんの手腕が問われる一件だったのでしょうかね?
残念ながら西郷さんとは無関係です。
日本と朝鮮が国際法を知っているか否かの違いでしたね。