いくら義経に強制されたとはいえ、後白河法皇が「頼朝追討」の院宣を出されたことは「痛恨の失敗」でした。なぜなら、それまで平氏滅亡のために戦ってくれた頼朝を裏切ることになるからです。しかも、朝廷は自前の軍隊を持っていませんから、反発した頼朝に攻められてはひとたまりもありません。
義経が去った後の1185年11月、頼朝は妻の父である北条時政(ほうじょうときまさ)を筆頭とする大軍を京都へ送り、後白河法皇に迫りました。
「法皇様の命令によって平氏滅亡に尽力したこの頼朝を、こともあろうに討てとはどういうおつもりですか?」
後白河法皇をはじめとする朝廷は恐怖に震え上がり、頼朝側をなだめるために、やむなく二つの権利を認めました。後世に名高い「守護・地頭の設置」です。
※下記の映像は1月23日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに自前の軍隊が無いという事は
丸腰であるという事なので
無防備な所へいきなり喉元に刀を突きつけられたら
面食らうのは必須ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
いわば「敵失」を最大限に利用した、頼朝の作戦勝ちといえるでしょうね。