そればかりでなく、頼朝によって自分の領地をすべて取り上げられ、暗殺までされかけた義経は、ついに頼朝との全面対決を決意しました。義経は後白河法皇から「頼朝追討」の院宣(いんぜん、上皇=法皇からの命令書のこと)を強引にもらうと、九州で再起を図ろうと考え、精鋭とともに船出をしましたが、不運にも嵐にあって難破してしまいました。
かつて屋島の戦いにおいて、嵐の中を短時間で四国に上陸を果たしたときと比べ、何という違いでしょうか。これ以降、それまでの幸運から見放された義経には、苦難の道が続くことになります。
精鋭の大半を失った義経は、わずかの手勢を率いて、かつて自分をかくまってくれた奥州の藤原秀衡を頼って落ちのびました。なお、この逃亡の際において、北陸の安宅(あたか)の関における「勧進帳(かんじんちょう)」の伝説が残されており、現代でも歌舞伎などを通じて有名になっています。
※下記の映像は1月23日までの掲載分をまとめたものです。
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青田です。
奥州藤原氏は、源氏と平氏との戦いで、経済大国、文化大国として、中立を保って
白河までを絶対防衛ラインとして、専守防衛に徹していました。
平家から、鎌倉を挟撃して欲しいと要請もありましたが、それも黙殺していました。
奥州藤原氏としては、源氏と平氏が戦いあって、消耗
戦になったほうが良かったと思います。
今の日本もそうですが、専守防衛と言っても、相手国が諸外国を占領して、巨大化すると、手も足も出ないという教訓を感じます。
ぴーち こんばんは!
骨肉の争い程見苦しいものは
有りませんね・・
尤も、このお二人は二十歳まで
互いの存在を知らない兄弟であったとの事
なので
あかの他人よりも縁遠い兄弟だったのかも
知れませんね・(^_^;)
青田さんへ
黒田裕樹 確かに、奥州藤原氏の末路は見習うところがありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あかの他人よりも縁遠い兄弟だったのかも
> 知れませんね・(^_^;)
まさしくそのとおりだと思います。
それにしても、義経の見放されぶりは哀れですね…。