秀衡は、先述のとおり、平泉(ひらいずみ、現在の岩手県平泉町)を中心として、平安末期に栄華を誇った奥州藤原氏の三代目でした。義経が22歳のとき、兄の頼朝が挙兵したと聞くと、義経は自分の家臣を引き連れて頼朝に面会し、以後は頼朝の指揮下に入りました。
ところで、義経の家臣のなかで一番名前が知られているのは、何といっても武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)でしょう。弁慶は実在の人物ですが、義経が牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた少年の頃に、京都の五条大橋で弁慶と対決した物語はあまりにも有名ですね。
しかし、この話はあくまで伝説であり、鞍馬寺を抜け出してから、秀衡の保護を受けるまでの数年間の義経の行動は、未だに謎に包まれたままです。ただ、間違いなく断言できることは、義経が頼朝に会うまでのあいだに、類(たぐい)まれな「戦術(=戦いに勝つための具体的な方法のこと)」を身に付けていた、ということです。
なぜそうなのかというと、時間をかけて培(つちか)われた彼の才能が、この後の平氏との戦いの中で、遺憾(いかん)なく発揮されていくからです。
※下記の映像は1月14日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
結局、時間やお金を掛けて来た事って
人よりも上手になるものですよね。
才能もそれまでの弛まぬ努力の賜物でしょう・・^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
何としても復讐したい、という義経の思いが、彼をここまでの人物に育てたのでしょうね。