そして、何よりも最大の不幸だったのが、清盛自身が病気となって、1181年閏(うるう)2月に64歳でこの世を去ってしまったことでした。清盛の死後は、三男の平宗盛(たいらのむねもり)が平氏の新たな棟梁(とうりょう)となりましたが、清盛ほどの器量は持っておらず、また後白河法皇が院政を再開されたこともあって、平氏による政権の将来に暗雲が立ち込め始めましたが、その原因は人材不足だけではありませんでした。
平氏に逆らった勢力には寺社も含まれていました。平氏は1180年12月に奈良の東大寺(とうだいじ)や興福寺(こうふくじ)の寺社勢力を鎮圧するため出兵しましたが、風の強い日に攻めたために火が燃え広がり、東大寺の大仏が焼け落ちるという大惨事となったことで、平氏は「仏敵(ぶってき)」呼ばわりされてしまったのです。
さらに、平氏を待ち受けていたのが大飢饉(だいききん)でした。1180年は異常気象に悩まされたこともあって農作物が不作となり、西日本を中心に餓死者(がししゃ)が相次いだばかりか、この状態が数年も続くという騒ぎになりました。これを当時の年号から「養和(ようわ)の大飢饉」といいます。
仏敵となったのは火の勢いがたまたま強かったのが理由であり、ましてや大飢饉の責任が平氏にあるはずもないことです。しかし、当時の人々は「飢饉は大仏を焼いた『祟(たた)り』であり、すべての原因は平氏にある」と固く信じており、平氏への恨みの声がますます高くなりました。
※下記の映像は1月14日までの掲載分をまとめたものです。
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いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
跡取りに先立たれるなどというのは
よほどの悪業を積んでいない限り
現れない現象ですものね。
平氏が落ちぶれたのは、過去世からの
自分が積んで来てしまった業の深さから
招いた結果なのだと改めて思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、業の深さですか。
いかなる事情があったとしても、誤った政策を行った人物やその一族には、相応の報いがあるのでしょうね。