要するに、頼朝は若い頃に武士としての「実地訓練」を積んでいたのです。やがて頼朝が1180年に平氏打倒に立ち上がると、当初は苦戦したものの次第に武士たちの同意を得て、同年の「富士川(ふじかわ)の戦い」で勝利するなど大勢力となっていきました。
なぜなら、平氏に一度「裏切られた」かたちとなった武士たちが、自分と同じ経験をした頼朝であれば、今度こそ期待に応えてくれるに違いないと判断したからです。
一方、頼朝をはじめ各地の源氏の挙兵に危機を感じた清盛は、1180年6月に平氏の経済的な本拠地である福原(ふくはら、現在の兵庫県神戸市)に都を遷(うつ)しましたが、余りにも性急に行ったことで皇族や貴族、あるいは寺社の反対が根強く、結局11月には京都に戻ることになりました。強引な手法で体制を固めてきた平氏の政権も、この頃には陰(かげ)りを見せていたのです。
どんなに大きな勢力であっても、人材が育たなければいつかは必ず衰えますし、不可抗力な事態が起こった場合には、人々の恨みは時の政権に向けられます。平氏の政権も例外ではなく、末期になると立て続けに不運が襲うようになりました。
※下記の映像は1月14日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
仰る通り、
育成は常に大切ですよね。
生みの親より育ての親と
言われる様に、育てていかないと
いつかは滅びてしまいますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
組織の維持には、人材の育成が欠かせませんが、平氏の不運はそれだけではなかったんですよね…。
関東が良かった気が。。
青田です。 青田です。
源頼朝にとって、良かったのは、
伊豆に配流されたことだったと思います。
もちろん、地方の武士の暮らしがわかったのもありますが、
元々、関東では、源氏の人気がありました。
さらに、京の都では、武士は、かなり、地位が低かったのに、関東では、源氏の御曹司で、ブランドになっていました。
青田さんへ
黒田裕樹 結果としてはそうなりますね。
いずれにせよ、頼朝が関東で力をつけた際に、清盛は自分の仕出かした失策を後悔したことでしょう。