清盛の母は早くに亡くなりましたが、継母(ままはは)にあたる池禅尼(いけのぜんに)が健在でした。池禅尼は、捕らえられた頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子に似ているから」という理由で、清盛に対して頼朝の生命を助けるように頼みました。
はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(=清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議したため、仕方なく頼朝を伊豆(いず、現在の静岡県の一部)へと流罪にしました。
一方、赤ん坊だった源義経の場合は、義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世の美女であったことで、御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命されたと伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平氏の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時日の出の勢いであった清盛が気づくはずもないことでした。
※下記の映像は12月31日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
情の深さと美しさですか・・
女性の最大の武器でも有りますね(苦笑)
そこの部分にしてやられることが
致命傷だったとは言え、そこを
無慈悲にしなかった事は
人間として負けでは無かったのでは
無いかと存じます。
改めて
今年も大変お世話になりましたm(_ _)m
来年もどうぞ宜しくお願いいたします。
良いお年をお迎えください^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 難しいところですね。
平氏に未来に暗雲をもたらしたのは事実ですが、後の鎌倉幕府設立のきっかけもつくっていますからね。
こちらこそ、今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。