しかし、近衛天皇は1155年に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇は、崇徳上皇の子である重仁(しげひと)親王が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになり、上皇の弟にあたる雅仁(まさひと)親王を後白河天皇として強引に即位させました。
我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天の君」として院政を行うことができません。鳥羽法皇による冷酷ともいえる仕打ちに激怒された崇徳上皇は、1156年に鳥羽法皇が崩御されるとクーデターを計画され、兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と関白の座を争って敗れた藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方に引き入れられるとともに、自前の軍をお持ちでなかったので、武士である平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)らを呼び寄せられました。
しかし、崇徳上皇のお考えを先読みされた鳥羽法皇は、ご自身の崩御の前に後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、ご自身の信頼が厚かった平忠盛の子であり、忠正の甥(おい)にあたる平清盛や、源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)らが参集しました。
※下記の映像は12月31日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
自らの子供を設けていれば
何の憂いもなかったのでしょうけれど
椅子取り合戦も
ここまで来ると醜い泥仕合ですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多いことではありますが、全くもって仰るとおりですよね。
この混乱が武士の台頭につながってしまうところが、何とも言えない皮肉です。
御譲位
青田です。 青田です。
私が、真っ先に、天皇の譲位に関して浮かんだのが、
この時代の上皇、法皇、天皇の関係でした。
歴史を知らない日本人が増えたからだと思いますが、
現代の今上天皇の御譲位に関して
特例とすべきか、慣例とすべきかで、識者でも
意見が分かれていますが、(特例になりそうですが。。)
今は、時代が違い、今は立憲君主制の議院内閣制ではありますが、かなり、神経質でデリケートな問題ですね。
未来において、また、馬鹿な政党が政権を取るとも限りませんから。。
青田さんへ
黒田裕樹 この件は、軽々しく口にできることではありません。
私は今後の経緯を静かに見守りたいと思います。