院政によって、上皇(=法皇)の地位は「治天の君」と称されるまでになりましたが、その独裁的な政治手法は周囲の混乱をもたらすことになり、それは皇位の継承に関しても例外ではありませんでした。
白河法皇は孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁(あきひと)親王を大変可愛がられ、親王が5歳になられた1123年に、崇徳(すとく)天皇として即位させました。
祖父の白河法皇によって無理やり退位させられた鳥羽上皇(のち法皇)は、いつしか自身の退位の引き金となった我が子の崇徳天皇に対して、良い感情を持たれなくなられました。そんな中、1129年に白河法皇が崩御(ほうぎょ)され、鳥羽上皇が待望久しい「治天の君」になられました。
※下記の映像は12月31日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
やはり独裁的なやり方は
いづれ憎しみが芽生える種となりますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多いことではありますが、白河法皇がなされたことが、この後の武家政権の誕生に直結しましたからね…。