この功績によって、正盛は白河法皇の厚い信頼を受け、直属の警備機関である北面の武士として登用されると、正盛の子の平忠盛(たいらのただもり)も、瀬戸内海の海賊を討ったことで白河法皇の孫の鳥羽法皇に信頼され、武士として初めて昇殿を許されました。いわゆる「殿上人(てんじょうびと)」のことです。
忠盛は西国を中心に多くの武士を従え、平氏が繁栄する基礎をつくりましたが、昇殿が許された武士の実力は留まることを知らず、12世紀半ば頃に起きた二つの反乱によって、平氏が朝廷にかわって政治の実権を握る道を切り拓(ひら)くことになりました。
その背景には朝廷内の権力争いがあり、またそれを上手に活用した人物こそが、有名な平清盛(たいらのきよもり)だったのです。
※下記の映像は12月31日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
どこかで
てんじょうびと・・という言葉を
聞いたことが有り
天上人」だと思っていたら
殿上人の方だったんですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、「殿上人」なんです。
昇殿を許されるのはかなりの身分なんですが、それよりもさらに上に立ったのが清盛なんですよね。