また、滅ぼされた藤原経清の未亡人が、武則の子の清原武貞(きよはらのたけさだ)の妻として新たに迎えられました。
武貞には既(すで)に嫡子(ちゃくし、跡継ぎのこと)である清原真衡(きよはらのさねひら)がいましたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡(きよはらのきよひら)を養子とし、また未亡人との間に清原家衡(きよはらのいえひら)が生まれました。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらしてしまいました。
こうした兄弟同士の不仲が、やがて清原氏の内紛を引き起こし、ついには兄弟同士で大きな戦乱になってしまいました。1083年から1087年まで続いたこの戦いのことを「後三年(ごさんねん)の役(えき)」といいますが、この内紛に乗じて源氏による陸奥の支配を目指した源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して、後三年の役に積極的にかかわりました。
※下記の映像は12月25日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに
兄弟の間で
親がそれぞれ違かったりすると
成長した後に関係がどうもしっくりいかず
どこかギクシャクした関係になるものですよね。
そこの所は、人の感情の難しい所ですね。
なかには完全に割り切った付き合いをして
仲睦まじい兄弟も居るようですが
なかなかそこまで捌けた考え方が
出来ないのが現状ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 通常の家庭ですら難しいのに、ましてや武士であれば尚更ですからね。
起こるべくして起こった内紛といえそうです。