将門はその後も下野(しもつけ、現在の栃木県など)や上野(こうずけ、現在の群馬県の大部分)の国府も攻略して関東の大半を占領し、自身が桓武天皇の子孫であることから「新皇(しんのう)」と自称しました。しかし、翌940年に、同じ東国の武士である平貞盛(たいらのさだもり)や藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって、将門は滅ぼされました。
同じ頃、西国でも伊予(いよ、現在の愛媛県)の国司であった藤原純友(ふじわらのすみとも)が、瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予の国府や大宰府(だざいふ)を攻め落としましたが、941年に、清和源氏の始祖(しそ)とされる源経基(みなもとのつねもと)らによって滅ぼされました。この戦いは「藤原純友の乱」と呼ばれています。
同時期に東西で起きた二つの反乱は、乱自体は何とか制圧したものの、軍事力の低下が明らかとなった朝廷に衝撃を与えるとともに、地方武士の組織が一層強化されるきっかけになりました。なお、この二つの乱は、当時の年号から「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」とも呼ばれています。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
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いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
確かに
同じ勝利と言えども
圧勝して勝ち得た結果と
競り合った末に何とか勝った結果とでは
随分差が有りますものね。
そしてその勝ち方は
そのまま、勝利した側のその時の
勢力の度合いを指し示すものですから
心していかねばなりませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結果的に勝利を収めたとしても、その後の対策が一番重要ですからね。
まさに「勝って兜の緒を締めよ」です。