清盛の母は早くに亡くなりましたが、継母(ままはは)にあたる池禅尼(いけのぜんに)が健在でした。池禅尼は、捕らえられた頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子に似ているから」という理由で、清盛に対して頼朝の生命を助けるように頼みました。
はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(=清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議したため、仕方なく頼朝を伊豆(いず、現在の静岡県の一部)へと流罪にしました。
一方、赤ん坊だった源義経の場合は、義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世の美女であったことで、御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命されたと伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平氏の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時日の出の勢いであった清盛が気づくはずもないことでした。
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ぴーち こんばんは!
情の深さと美しさですか・・
女性の最大の武器でも有りますね(苦笑)
そこの部分にしてやられることが
致命傷だったとは言え、そこを
無慈悲にしなかった事は
人間として負けでは無かったのでは
無いかと存じます。
改めて
今年も大変お世話になりましたm(_ _)m
来年もどうぞ宜しくお願いいたします。
良いお年をお迎えください^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 難しいところですね。
平氏に未来に暗雲をもたらしたのは事実ですが、後の鎌倉幕府設立のきっかけもつくっていますからね。
こちらこそ、今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。
選挙という民主的な手段がある現代とは違って、昔は政敵とみなされた人物は、本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺されるのが常でした。なぜなら、身内を殺されたことで残った恨みは消えることなく、当時の子供がそのまま大人になれば、復讐のために生命を奪おうとする可能性が十分考えられたからです。
こうした原則からすれば、清盛によって捕らえられた頼朝や義経らの運命は風前の灯(ともしび)であり、処刑されてもおかしくないはずでした。しかし、清盛は結果として彼らの生命を奪おうとはしませんでした。なぜ清盛は頼朝や義経を助けたのでしょうか。
その背景には、二人の女性が存在していたのです。
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ぴーち こんばんは!
女性の存在ですか・・・
どの様な関係の女性だったのでしょうかね^^
何か問題が起きた時は
必ず影には女性の影ありと聞いた事が有りますが(^_^;)
つねまる 先生、こんにちは。いつもお世話になっております。後輩からこんにちはです。
私は在学中に文化会能楽部に入って、生協横の和室でほぼ大学時代を過ごしましたが、今、あちこち巡る折りにとても大きな財産になっております。
謡には源平の話が多いので、お話、楽しく拝見しております。
今年もとても勉強になりました。
先輩が頑張っておいでなのは、とても励みになります。
来年もまた何卒よろしくお願い申し上げます。
良いお年をお迎えくださいませ。
来年はぜひ、先生に、高砂やぁ~♪を謡えますように応援してます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何か問題が起きた時は
> 必ず影には女性の影ありと聞いた事が有りますが(^_^;)
今回も、まさに仰るとおりの展開となります。
詳しくは次回の更新をご覧ください。
つねまるさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、この一年も大変お世話になり、有難うございました。
来年こそは「高砂やぁ~♪」を経験したいですね(笑)。
1158年、後白河天皇は子の二条(にじょう)天皇に譲位され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった、信西(しんぜい)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激しくなりました。
一方、保元の乱の戦功によって、平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、中国の宋(そう)とのいわゆる「日宋貿易」を行って経済的実力が高まった清盛に対して、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれていたのです。
義朝は信西に不満を持っていた藤原信頼に協力して、1159年に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁したほか、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって、後白河上皇と二条天皇が脱出に成功されると、形勢は一気に逆転しました。清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡中に襲われて死亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、最期には処刑されてしまいました。この戦いは、当時の年号から「平治(へいじ)の乱」と呼ばれています。
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ぴーち こんばんは!
なんと言うか・・
今回のお話を聞いただけでも
人間というのはこれ程までに残酷に
なれるのものなのか・・という思いを抱きましたね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時、処刑は「ケガレ仕事」ということで、武士に任されていました。
義朝は、父親の処刑を他人にさせるよりも、せめて自分の手で行いたかったのか、あるいは御上からの指示でやらされたのか、いずれにせよ残酷ではありますね。
しかし、近衛天皇は1155年に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇は、崇徳上皇の子である重仁(しげひと)親王が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになり、上皇の弟にあたる雅仁(まさひと)親王を後白河天皇として強引に即位させました。
我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天の君」として院政を行うことができません。鳥羽法皇による冷酷ともいえる仕打ちに激怒された崇徳上皇は、1156年に鳥羽法皇が崩御されるとクーデターを計画され、兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と関白の座を争って敗れた藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方に引き入れられるとともに、自前の軍をお持ちでなかったので、武士である平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)らを呼び寄せられました。
しかし、崇徳上皇のお考えを先読みされた鳥羽法皇は、ご自身の崩御の前に後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、ご自身の信頼が厚かった平忠盛の子であり、忠正の甥(おい)にあたる平清盛や、源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)らが参集しました。
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ぴーち こんばんは!
自らの子供を設けていれば
何の憂いもなかったのでしょうけれど
椅子取り合戦も
ここまで来ると醜い泥仕合ですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多いことではありますが、全くもって仰るとおりですよね。
この混乱が武士の台頭につながってしまうところが、何とも言えない皮肉です。
御譲位
青田です。 青田です。
私が、真っ先に、天皇の譲位に関して浮かんだのが、
この時代の上皇、法皇、天皇の関係でした。
歴史を知らない日本人が増えたからだと思いますが、
現代の今上天皇の御譲位に関して
特例とすべきか、慣例とすべきかで、識者でも
意見が分かれていますが、(特例になりそうですが。。)
今は、時代が違い、今は立憲君主制の議院内閣制ではありますが、かなり、神経質でデリケートな問題ですね。
未来において、また、馬鹿な政党が政権を取るとも限りませんから。。
青田さんへ
黒田裕樹 この件は、軽々しく口にできることではありません。
私は今後の経緯を静かに見守りたいと思います。
院政によって、上皇(=法皇)の地位は「治天の君」と称されるまでになりましたが、その独裁的な政治手法は周囲の混乱をもたらすことになり、それは皇位の継承に関しても例外ではありませんでした。
白河法皇は孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁(あきひと)親王を大変可愛がられ、親王が5歳になられた1123年に、崇徳(すとく)天皇として即位させました。
祖父の白河法皇によって無理やり退位させられた鳥羽上皇(のち法皇)は、いつしか自身の退位の引き金となった我が子の崇徳天皇に対して、良い感情を持たれなくなられました。そんな中、1129年に白河法皇が崩御(ほうぎょ)され、鳥羽上皇が待望久しい「治天の君」になられました。
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ぴーち こんばんは!
やはり独裁的なやり方は
いづれ憎しみが芽生える種となりますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多いことではありますが、白河法皇がなされたことが、この後の武家政権の誕生に直結しましたからね…。
この功績によって、正盛は白河法皇の厚い信頼を受け、直属の警備機関である北面の武士として登用されると、正盛の子の平忠盛(たいらのただもり)も、瀬戸内海の海賊を討ったことで白河法皇の孫の鳥羽法皇に信頼され、武士として初めて昇殿を許されました。いわゆる「殿上人(てんじょうびと)」のことです。
忠盛は西国を中心に多くの武士を従え、平氏が繁栄する基礎をつくりましたが、昇殿が許された武士の実力は留まることを知らず、12世紀半ば頃に起きた二つの反乱によって、平氏が朝廷にかわって政治の実権を握る道を切り拓(ひら)くことになりました。
その背景には朝廷内の権力争いがあり、またそれを上手に活用した人物こそが、有名な平清盛(たいらのきよもり)だったのです。
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ぴーち こんばんは!
どこかで
てんじょうびと・・という言葉を
聞いたことが有り
天上人」だと思っていたら
殿上人の方だったんですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、「殿上人」なんです。
昇殿を許されるのはかなりの身分なんですが、それよりもさらに上に立ったのが清盛なんですよね。
途方に暮れた義家は、自腹を切って部下に恩賞を与えましたが、皮肉にもこのことで義家は東国の武士たちの心をとらえ、源氏を棟梁と仰ぐ深い信頼関係が生まれたのです。
なお、前九年の役は11年、後三年の役は4年続いているのに、なぜ「九年」「三年」と名づけられているかについては、様々な説が挙げられていますが、正確には分かっていません。
後三年の役の勝者となった清原清衡は、源義家が東北を去った後に、藤原氏に復姓して藤原清衡(ふじわらのきよひら)を名乗り、豊富な資金力で工作した結果、朝廷から陸奥の支配権を認めてもらいました。
藤原清衡は奥州の平泉(ひらいずみ、現在の岩手県平泉町)を本拠地(ほんきょち)として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(ふじわらのもとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の三代、約100年にわたって奥州藤原氏が全盛を極める基礎を固めたのです。
※下記の映像は12月25日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
元から心根に慈悲の思いが強く宿っている人は
どんなに惨めな立場に追いやられたとしても
常に他の人間を気遣う気持ちで
必ず自分自身も救われていくものだと思いますね。。。
地方創生の手本
青田です。 青田です。
なぜか、私の周りの歴史好きに、この奥州藤原氏の話をすると、
盛り上がりません。東北出身の人も、あまり、興味がないようです。
私にすれば、この奥州藤原氏は、もの凄い偉業を成し遂げました。
① 東北を一つにした。
→ それまで、東北は、度重なる戦いの連続で殺し合い、人心がバラバラになっていました。
それを奥州藤原氏は、一つにまとめました。
② 文化地域にした。
→ 当時、東北地方は、京都からすると、蝦夷と蔑称で、呼ばれ、文化的に劣るとされて、馬鹿にされていました。
それを、奥州藤原氏は、この世に極楽浄土を創ろうと、文化地域にしました。
③ 平泉を近代都市にした。
当時の京の都の人口は、17万人都市です。
それに比べて、平泉は、12万都市でした。
その当時、日本第二の都市です。
④ 大経済地域にした。
それまでの東北は、飢饉が多く、貧しい地域でしたが、それを金山の開発と交易で、一大経済地域にしました。
有能なリーダーの力で、ここまで、地方を変えることが出来るという証明です。
現在、日本の地方は、中央ばかりを観ていて、文句ばかり、言っていますが、
地方を視点にした思考も歴史教育では、必要です。
やはり、有能なリーダーで、世の中は、変わりますね。
その後、戦国時代になっても、結局、東北全体を一つにまとめるだけのリーダーは、出現しませんでしたが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 義家には義家の思惑があったとは思いますが、結果的に自腹を切ったことが、大きな効果をもたらしましたね。
青田さんへ
黒田裕樹 こうした事実を鑑みれば、確かに素晴らしいことですね。
盛り上がらない背景には、歴史教育の偏向もあると思います。
日本の優れたところは紹介しないとか…。
藤原清衡の裏技
青田です。 青田です。
この源義家の朝廷からの、不当な扱いは
藤原清衡が、金を使った調停工作があると
言われています。
藤原清衡が、源氏が東北に介入してきて、バラバラになった苦い経験があったので、中央の不介入を防ぐために行ったという説があります。
最初から、藤原清衡は、東北に理想郷を創ろうというビジョンがあったようです。
今の時代にいて欲しかったです。
青田さんへ その2
黒田裕樹 そう考えれば、藤原清衡の政治力は大したものですね。
奥州藤原氏は、武士政権の先駆け
青田です。 青田です。
私は、奥州藤原氏は、東北地方だけですが、
日本初の武家政権だと思います。
① 奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩しませんでした。
②清衡は陸奥押領使に、基衡は奥六郡押領使、出羽押領使に、秀衡は鎮守府将軍という軍事権・警察権も与えられました。
③奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていました。
中央政府が権力争いをしているがゆえに、奥州まで介入する余裕が無かったことが幸いだった気がします。
中央から離れた独立政権というのは、画期的でした。
おそらく、今でいうEUのような感じだった気がします。
個人的には、今でも、東京一極集中で、東京から、上から目線で、地方を観るののに腹が立つ私とすれば、当時の京の都を凌いだ平泉を築いた奥州藤原氏は、好きです。
青田さんへ その3
黒田裕樹 仰る思いは良く分かるつもりです。
また、滅ぼされた藤原経清の未亡人が、武則の子の清原武貞(きよはらのたけさだ)の妻として新たに迎えられました。
武貞には既(すで)に嫡子(ちゃくし、跡継ぎのこと)である清原真衡(きよはらのさねひら)がいましたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡(きよはらのきよひら)を養子とし、また未亡人との間に清原家衡(きよはらのいえひら)が生まれました。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらしてしまいました。
こうした兄弟同士の不仲が、やがて清原氏の内紛を引き起こし、ついには兄弟同士で大きな戦乱になってしまいました。1083年から1087年まで続いたこの戦いのことを「後三年(ごさんねん)の役(えき)」といいますが、この内紛に乗じて源氏による陸奥の支配を目指した源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して、後三年の役に積極的にかかわりました。
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ぴーち こんばんは!
確かに
兄弟の間で
親がそれぞれ違かったりすると
成長した後に関係がどうもしっくりいかず
どこかギクシャクした関係になるものですよね。
そこの所は、人の感情の難しい所ですね。
なかには完全に割り切った付き合いをして
仲睦まじい兄弟も居るようですが
なかなかそこまで捌けた考え方が
出来ないのが現状ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 通常の家庭ですら難しいのに、ましてや武士であれば尚更ですからね。
起こるべくして起こった内紛といえそうです。
1051年から1062年まで続いた安倍氏による一連の反乱は、「前九年(ぜんくねん)の役(えき)」と呼ばれています。
反乱の後、安倍氏の領地は清原氏に与えられ、清原氏が事実上の東北地方(=陸奥)の覇者となりました。なお、滅ぼされた安倍氏の中で流罪(るざい)となり、生き残った安倍宗任(あべのむねとう)の子孫が、九州で松浦党(まつらとう)と呼ばれる武士団として活躍したと伝えられ、また、その血脈は現代にまで残り、21世紀には国政のトップにまで登りつめました。
安倍晋三(あべしんぞう)内閣総理大臣のことです。
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ぴーち こんばんは!
流罪で!
そうでしたか(^_^;)
それでは岸信介氏もその流れだったのですかね?
それにしても、血は争えませんね~
ぴーちさんへ
黒田裕樹 岸信介元首相は、佐藤家(佐藤栄作元首相の実兄です)から、婿養子だった父の実家である岸家の養子になりました。岸元首相の娘と安倍晋太郎氏が結婚して、生まれたのが安倍晋三首相になります。
こうした豊富な経済力に支えられて、東北地方では現在の太平洋側を安倍氏(あべし)が、日本海側を清原氏(きよはらし)が地方豪族として支配し、その力は次第に強くなっていきました。
1051年、安倍氏の棟梁であった安倍頼時(あべのよりとき)が反乱を起こしました。朝廷では源頼信の子である源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥守(むつのかみ)・鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任じて、頼義の子である源義家(みなもとのよしいえ)とともに鎮圧を命じました。
しかし、平将門を滅ぼした藤原秀郷の子孫とされる藤原経清(ふじわらのつねきよ)が寝返ったことで、朝廷側は苦戦し、戦いは長期化しました。
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ぴーち こんばんは!
あら!
この頃にも安倍氏が活躍していたんですね^^
現代の首相は山口出身との事ですので
ご先祖という事は無いでしょうけれど(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現代の首相は山口出身との事ですので
> ご先祖という事は無いでしょうけれど(^_^;)
さぁどうでしょう(笑)?
次回以降の更新をお待ちくださいm(_ _)m