太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)は、それまでの日向(ひゅうが、現在の宮崎県)の高千穂(たかちほ)から、都を東方へ移そうと決意されました。
神武天皇がそのように思われたのは、日向よりも東の方で争いが絶えず、まとまりのない状態であったため、大八島(おおやしま、日本のこと)の中心たる大和に向かい、そこで新たに都を造ろうとお考えになったからだと伝えられています。
神武天皇は軍勢を率いられて日向から瀬戸内海を渡り、大阪湾から大和へ上陸されようとしました。先述の「難波(なにわ)の碕(みさき)へは速い潮流があって大変早く着いた」とはこのことです。しかし、現在の大阪府東大阪市付近で、長髄彦(ながすねひこ)らの激しい抵抗にあって、兄を失われました。
※下記の映像は10月20日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
この頃は現在の宮崎に
都が存在していたのですね!
遷都を行う事は珍しくない
事なのでしょうね・
現在の東京だとて
将来的にはもう少し条件の良い場所に
代わる可能性も有りますものね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 実際に、遷都は何度も行われていますからね。京都が(一時期の福原を除いて)1000年以上続いているので勘違いしやすいですが…。
東京への遷都は、江戸という都市機能を生かした方が何かと都合が良かったという一面もありました。将来の遷都の可能性は十分あると思います。