その後、温暖化や土砂の堆積(たいせき)によって、上町(うえまち)台地の北側に位置する河内湾と大阪湾の連絡口が狭(せば)まり、今から約3000~2000年前には、干潟(ひがた)が広がって河内潟(かわちがた)となりました。さらに約1800~1600年前には、湾口(わんこう)が閉ざされて河内湖(かわちこ)となり、やがて平野化したのです。
河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には、開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。
実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。
※下記の映像は10月14日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
私は関西地方の地形には詳しくありませんが
確かに大阪は平野が広がっているものだと
認識しておりましたが、昔は湾だったんですね!
そう言えば、時代は違いますが
今の新宿辺りも江戸時代頃には
沼地が広がっていて、旅人が足を取られてはそこで
息絶えた者が居るなどと伺った事が有りました。
現代の様に高層ビル群が立ち並ぶイメージとは
想像が付きませんが(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 それぞれの時代で自然の地形も変わりますからね。
大阪駅も昔は海の底でしたし。