これは、昭和42(1967)年に、当時の佐藤栄作(さとうえいさく)首相が、国会答弁において共産国や国連安保理決議で武器輸出が禁止されている国、あるいは紛争当事国やその恐れのある国に対する武器輸出を禁止すると表明したのが始まりでした。
武器輸出三原則は、昭和51(1976)年に当時の三木武夫(みきたけお)首相によって、三原則対象以外の地域についても原則として武器の輸出を禁止するなど、さらに強化されました。
しかし、その後、最新鋭の武器の国際共同開発が主流となる中で、武器の輸出が原則不可能であった我が国は、そうした流れから取り残されつつありました。
つまり、平和主義の立場から守られてきた武器輸出三原則によって、武器の開発において、我が国が他国よりも遅れをとることで抑止力が低下し、かえって安全保障に重大な問題が生じるようになってしまったのです。
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ぴーち こんばんは!
確かに勉強した記憶が有ります(^_^;)
けれど、
この法律は日本独自の法な訳ですよね?
こういう定めは、世界全体(或いは主要な国)
が国際法のような形で
遵守していく方向に持って行かない限り
意味をなさない法律となってしまう気がします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
我が国だけが厳格に守って、結果として安全保障に支障が生じては本末転倒です。
世界の潮流に合わせるためにも、最近になって大幅に改定されました。詳しくは次回の更新をご覧ください。
世界にこのような文明は、昔は他にもあったのかもしれませんが、今は我が国にしかありません。
「千里の道も一歩から」ともいいます。政治的な解決方法もありますが、それよりも、これまでに明らかにされた事実を、一人ひとりが、民間から広く啓発(けいはつ)していくことこそが重要ではないでしょうか。
「日本文明」の存在を、日本国民全体で共有できる日が来ることを願いながら、私たちが先頭に立って、これからも正しい歴史を伝えていこうではありませんか。
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(※第56回歴史講座の内容はこれで終了です)
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ぴーち こんばんは!
そう言えば、先日
中国の万里の長城の余りにも
お粗末過ぎる修復工事に
唖然とさせられましたっけ(^_^;)
あの様に
ただ単に土台を頑丈にすればそれで良い
と言う短絡的な考え方だけで
修復されてしまっては
中国人のご先祖様も悲しむ事でしょう・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 他国には他国の事情があるかもしれませんが、少なくとも我が国のこれまでの歩みを否定されたくはないですね。
つまり、我が国は世界とは全く異なる、独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、我が国の伝統たる記紀にみられる記載と地質学的な知識との一致や、較正(こうせい)炭素年代法など最新の調査で明らかになった事実を鑑(かんが)みれば、ハンティントンの言葉を借りるまでもなく、我が国が古来より輝かしい歴史を誇っていることは明らかです。
我が国は、ハンティントンすら気付いていなかった、遥(はる)かに遠い過去からの独自の文明の源泉があったことを、もっと認識すべきではないでしょうか。
しかし、いまだに「世界四大文明」にこだわった、旧態依然(きゅうたいいぜん)の歴史教科書の記載をみれば、「日本文明の誕生」を人口に膾炙(かいしゃ)させることは、容易ではなさそうです。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね!
日本は独自の文明を開拓してきた
優れた民族だと思います。
その部分は是非とも西洋かぶれ、
外国かぶれにならないように
しっかりと保持して行きたいものですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
外国の文化を吸収することは問題ないですが、同時に我が国の文化を捨ててしまうような行為は認められません。
ちなみに、当時発表された世論調査によれば、「2月11日を建国記念の日とする」案が全体の5割近くを占(し)めるなど、国民から圧倒的な支持を得ていたそうです。
なお、「建国記念の日」が「建国記念日」ではないのは,史実に基づく建国の日とは関係なく,建国されたという事象そのものを記念する日であるという考えによるものであるとされ、祝日制定に断固として反対した当時の日本社会党(現在の社会民主党)を納得させるためだったそうです。
しかしながら、祝日制定からすでに半世紀が経過したのですから、GHQによる洗脳状態から真に脱出するためにも、改めて「建国記念日」として国民がこぞって祝うことができるよう、法律の改正を求めていくべきではないでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
建国記念の日ですか(^_^;)
「の」が入ると入らないのでは
意味合いが変わる処も
また日本語らしい解釈ですね(*ノω・*)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
だからこそ、正常な名称を使用したいものです。
神武天皇による建国のご意思は、長いあいだ我が国の理想として絶えることなく伝承され続け、明治時代には「紀元節」として祭日となり、大東亜戦争の終戦後も、昭和23(1948)年の前半頃までは、官庁や学校で祝典が開催されていました。
しかし、GHQの命令によって、新たに国会で祝日法を制定することになった際に、日本人が心を一つにして国の誕生日を祝うことが、日本人の団結心をもたらすとともに、占領に「悪影響」が出ることが予想されたため、紀元節が一方的に廃止されてしまったのです。
その後、我が国が独立を回復する以前から、紀元節の復活を望む声が国民のあいだで高まってきましたが、米ソの冷戦や安保闘争などの保革激突によって実現できませんでした。
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ぴーち こんばんは!
今の日本の体たらくは
戦後のGHQの方針が齎しさ
ものなのだなとしみじみ思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今の日本の体たらくは
> 戦後のGHQの方針が齎しさ
> ものなのだなとしみじみ思いました。
そのとおりですし、そこからいまだに脱出できていないところが残念でなりません。
そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられているので、サッカーファンにはなじみが深いかもしれませんね。
大和に入られた神武天皇の軍勢は、抵抗する豪族を次々と倒して目的地に近づかれましたが、再び長髄彦(ながすねひこ)らが天皇の前に立ちふさがりました。折しも氷雨(ひさめ)が降るなか、天皇が苦戦されておられたそのときに、どこからともなく金色に輝く一羽のトビが飛んできて、天皇の弓の先に止まると、トビは稲光のようにピカッと光り輝き、敵軍の目をくらまして敗走に追い込みました。
このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮は、この伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。
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ぴーち こんばんは!
サッカーの事はまるで存じませんが
八咫烏がシンボルマークなんですね。
サッカー協会は
天照大神を何方か信仰してるんでしょうか?
それとも道案内という意味合いが
支持されたのでしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日本にサッカーを紹介して広めた功績者であり、周囲から神様のように慕われたらしく中村覚之助氏の功績をたたえ、彼の故郷である和歌山県那智勝浦町の渚の宮神社のシンボルである八咫烏を取り入れることにした、という説があるようですね。
太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)は、それまでの日向(ひゅうが、現在の宮崎県)の高千穂(たかちほ)から、都を東方へ移そうと決意されました。
神武天皇がそのように思われたのは、日向よりも東の方で争いが絶えず、まとまりのない状態であったため、大八島(おおやしま、日本のこと)の中心たる大和に向かい、そこで新たに都を造ろうとお考えになったからだと伝えられています。
神武天皇は軍勢を率いられて日向から瀬戸内海を渡り、大阪湾から大和へ上陸されようとしました。先述の「難波(なにわ)の碕(みさき)へは速い潮流があって大変早く着いた」とはこのことです。しかし、現在の大阪府東大阪市付近で、長髄彦(ながすねひこ)らの激しい抵抗にあって、兄を失われました。
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ぴーち こんばんは!
この頃は現在の宮崎に
都が存在していたのですね!
遷都を行う事は珍しくない
事なのでしょうね・
現在の東京だとて
将来的にはもう少し条件の良い場所に
代わる可能性も有りますものね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 実際に、遷都は何度も行われていますからね。京都が(一時期の福原を除いて)1000年以上続いているので勘違いしやすいですが…。
東京への遷都は、江戸という都市機能を生かした方が何かと都合が良かったという一面もありました。将来の遷都の可能性は十分あると思います。
現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が、河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って、一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。
こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら、河内湾の頃であれば、現在の大阪府東大阪市付近での長髄彦(ながすねひこ)らとの戦い(詳しくは後述します)が海戦となってしまいますし、また河内湖になってしまえば、遠浅の湖面では軍船での上陸は厳しいうえに、「速い潮流があって大変早く着いた」とはなりません。
ということは、神武天皇の東征は、今から約3000~2000年前の河内潟の頃に行われたことになりますね。その一方で、日本書紀によれば、神武天皇が即位されたのは、今から2676年前です。
つまり、神武天皇の東征は、地質学的にもその正しさが証明されたことになるのです。
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現在の大阪が「浪速(なにわ)」あるいは「浪花(なにわ)」と呼ばれたり、ミナミの中心地が「難波(なんば)」と呼ばれたりするのは、地質学と記紀の両方にルーツがあることが良く分かりますね。
なお、河内潟の頃に、先の尖(とが)った形をした上町台地は「難波(なにわ)の碕(みさき)」と呼ばれていました。
さらには、神武天皇が大和(現在の奈良県)の国を目指して東征(とうせい)された際に(詳しくは後述します)、大阪湾から現在の大阪府東大阪市に船で移動したという話が日本書紀にみられますが、ここにも地質学的に証明できる記述が見られるのです。
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ぴーち こんばんは!
確かに
「なぜにその地名が付いたのだろう?」と
思う場所は有りますよね。
例えば、富士見などという地名は
良く有りがちですが、
昔はその位置から富士山が見えたというのが
ルーツと聞いて、納得した事が有りましたっけ^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そういえば「富士見」も由来が分かりやすい地名ですよね。
何事にも理由があるものです。
その後、温暖化や土砂の堆積(たいせき)によって、上町(うえまち)台地の北側に位置する河内湾と大阪湾の連絡口が狭(せば)まり、今から約3000~2000年前には、干潟(ひがた)が広がって河内潟(かわちがた)となりました。さらに約1800~1600年前には、湾口(わんこう)が閉ざされて河内湖(かわちこ)となり、やがて平野化したのです。
河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には、開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。
実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。
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ぴーち こんばんは!
私は関西地方の地形には詳しくありませんが
確かに大阪は平野が広がっているものだと
認識しておりましたが、昔は湾だったんですね!
そう言えば、時代は違いますが
今の新宿辺りも江戸時代頃には
沼地が広がっていて、旅人が足を取られてはそこで
息絶えた者が居るなどと伺った事が有りました。
現代の様に高層ビル群が立ち並ぶイメージとは
想像が付きませんが(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 それぞれの時代で自然の地形も変わりますからね。
大阪駅も昔は海の底でしたし。