俗説として一般的に有名なのは、「称徳天皇は、始めのうちは藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされ、その後は称徳天皇の愛を一身に受けた道鏡が天皇になろうという野心を持った」というものですが、私はこのような話は「有り得ない」と考えます。
まず、称徳天皇と藤原仲麻呂の関係ですが、これまでに書いたように、両者はむしろ対立関係にありました。藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ることによって、称徳天皇を差し置いて政治の実権を独占していたからです。
その後、専横を強めた仲麻呂改め恵美押勝が、新羅征討まで試みるようになったことに対して、亡国の危機を救うために称徳天皇が立ち上がられ、政界に復帰したというのが本来の姿です。また、称徳天皇と道鏡の関係についても、当時の「常識」として有り得ません。なぜそのように断定できるのでしょうか。
当時の我が国の仏教で不足していたのは「戒律」であり、それを補うために、唐の高僧であった鑑真が来日したのは先述したとおりですが、戒律の中でもっとも重要なもののひとつに「異性と通じてはならない」というのがあります。
※下記の映像は8月30日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち 称徳天皇の俗説については
私は今回初めて伺いました。
あくまで私の勝手な推測ですが
女性天皇ということで
当時としても
かなりの注目を集めていたと思うのです。
そんな中、面白可笑しく話をでっち上げる
輩は必ず出てくるものと思います。
今で言うとマスコミが有る事無い事
話を作り、そうして作られた架空の人物像だけが一人歩きしてしまい、それが定説となってしまう
ことが当時も起こったのではないかと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えは果たして的を射ておられるでしょうか。
次回にその結論を述べます。