630年に舒明(じょめい)天皇が始められた遣唐使(けんとうし)は、一時期の中断を経て702年に復活すると、894年に廃止されるまで長く続けられました。
大陸の政治制度や文化を学ぶために、多くの留学生が唐へ渡りましたが、造船や航海技術が未熟であった当時は、遣唐使による航海は命がけであり、中には帰国できずに、そのまま唐で生涯を終えた留学生もいました。
717年に吉備真備(きびのまきび)らが入唐(にっとう)した際、彼らに同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得ましたが、才能が高かったゆえに、皇帝がなかなか仲麻呂の帰国を許しませんでした。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
遣唐使の中断や廃止は
帰国出来ない者が居たために
そのような措置が取られたのですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 遣唐使の中断は、唐・新羅の連合軍と白村江の戦いで我が国が敗れた後、新羅との国交回復を優先したために、唐との関係が一時的に断絶したのが主な理由です。また、遣唐使の廃止は、唐の政情不安によって、危険な航海を伴ってまで留学する必要性がなくなったからです。