この結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライバルを次々と倒していきました。755年には、朝廷を誹謗(ひぼう、悪口を言うこと)したという密告によって、橘諸兄に左大臣を辞職させました。また757年には皇太子であった道祖王(ふなどおう)をその地位から引きずり下ろし、仲麻呂の長男の未亡人と結婚させた大炊王(おおいおう)を皇太子に立てました。
これらの動きに反発した、橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、同じ757年に仲麻呂を除こうと反乱を企(くわだ)てましたが、事前に発覚して失敗しました。この事件を「橘奈良麻呂の乱」といいます。かくして、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した仲麻呂は、ますます自己の権力を高めていきました。
その後、758年に孝謙天皇が退位され、仲麻呂と縁の深い大炊王が淳仁(じゅんにん)天皇として即位されると、淳仁天皇は仲麻呂に対して、貨幣の鋳造権や税の徴収権とともに、新たに「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を与えられました。
天皇に準ずる権力をもつことになった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣(だじょうだいじん)に相当する大師(たいし)に、皇族以外で初めて就任しました。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
藤原氏の野望の強さを伺わせる
お話ですね。
人は自分の目的を果たす為なら
なんでもするものなんですね(^_^;)
勿論、その逆に心が働けば
世のため人の為になれたものを・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
この後も、奈良時代は藤原氏の因果応報が続きます。