橘諸兄は、唐から帰国した留学生の吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(げんぼう・※注)を重用しましたが、これに反発した、藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、740年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしました。これを「藤原広嗣の乱」といいます。
乱自体は間もなく平定されたものの、相次ぐ凶事や政情不安に動揺された聖武天皇は、この後、平城京から山背国相楽郡(やましろのくにそうらくぐん、現在の京都府木津川市)の恭仁京(くにきょう)、摂津国難波(せっつのくになにわ、現在の大阪市中央区)の難波宮(なにわのみや)、近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、現在の滋賀県甲賀市信楽町)の紫香楽宮(しがらきのみや)と相次いで都を遷(うつ)されました。
そして、長屋王のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには、仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武天皇は、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆を政策の最重要課題とされました。
※注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています。
※下記の映像は8月19日までの掲載分をまとめたものです。
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オバrev この話は、私が大学受験(理系です)の時は知りませんでした(・・・40年以上前ですが)が、子供の受験で初めて知りました(゜o゜;
藤原広嗣の乱って、昔から有名だったんですかね・
オバrevさんへ
黒田裕樹 藤原広嗣の乱は結構有名ですよ。
乱の減員も、乱がもたらした影響も、すべてつながっていますからね。そう考えれば結構重要な事実です。