藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は、武智麻呂が南家(なんけ)、房前が北家(ほっけ)、宇合が式家(しきけ)、麻呂が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖(しそ)となりました。
まさに我が世の春を迎えた四兄弟でしたが、その繁栄は長くは続きませんでした。彼らには過酷な運命が待っていたのです。
737年、九州地方から発生した疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が、都の平城京でも大流行しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事(きょうじ)、そしてあまりの偶然に、当時の朝廷では「長屋王のタタリが起こった」と恐怖におびえました。
※下記の映像は8月19日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
そうですね
この場合は、民衆は「祟り」だと思うでしょうけれど、
藤原四兄弟の死は
「悪因悪果」の現証そのものだったのでは無いでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もあり得ますね。
当時の朝廷では「長屋王のタタリ」と大問題になったようですが…。