光仁(こうにん)天皇の子の桓武(かんむ)天皇が、794年に都をそれまでの長岡京から平安京に遷(うつ)された頃、桓武天皇の子で皇太子の安殿(あて)親王は身体が弱く、病気がちでした。そんな親王の后(きさき)としてある女性が選ばれた際に、その女性が幼かったため、彼女の母親も後見役として一緒に迎えられましたが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。
何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが、藤原氏の式家(しきけ)の血を引く藤原薬子(ふじわらのくすこ)でした。安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御され、安殿親王が平城(へいぜい)天皇として即位されると、薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
※下記の映像は9月7日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
こういうお話を伺うと
女人の恐ろしさを感じずには居られなくなりますね(^_^;)
同性として考えて見てもどうも受け入れがたい
存在ですね・・
野望の果てに行き着いた場所は
心の底から喜べる境涯なのでしょうか・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 やはり同性としても受け入れがたいですか…。
この愛憎の結末は、次回の更新をご覧ください。
それに、称徳天皇が崩御された後に、道鏡は下野に追放されていますが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になっていれば、ここぞとばかりに戒律を破った罪で彼の僧籍を剥奪(はくだつ)するか、場合によっては殺害されてもおかしくないのに、現実には彼は僧のままこの世を去っているのです。
加えて、先述したように「道鏡が天皇になろうとした」のではなく、「称徳天皇が道鏡を天皇後継に指名された」のが正しい表現ですし、また称徳天皇にしても、もし男性と深い関係におちいるような女性であれば、当時の我が国の風潮として、いかに実力があったとしても、称徳天皇として重祚(ちょうそ)されることや、寺社を除く墾田の私有を禁止するという思い切った政治などを、天皇の周囲が許すことは決してなかったでしょう。
では、なぜ後世にこのような「伝説」が残されてしまったのでしょうか。考えられる理由のひとつとしては、称徳天皇と道鏡が「藤原氏に対抗する勢力」であったことです。
時代の勝者となった藤原氏にとって、仏教勢力を背景に墾田の私有を禁じた政治を行った二人は「敵」であり、悪役として印象づけるために、二人の間に「そういう関係」があることを暗示したのがきっかけではないかと推定されています。
歴史は正しく伝えられ、かつ評価されるのが大前提ですが、時代の勝者によって筆が書き換えられることは、現代でもよくある話です。私たちは歴史を学ぶ際に、当時の背景や勢力争いなどに加えて、歴史の大きな流れを慎重に見極めながら、真実を導き出していきたいものですね。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、
時代の勝者によって
捏造されてしまった話でしたか。
それでも嘘偽りで固められた話というのは
メッキと同じで
いづれはその真実を知ることが可能になるのでしょうね。
勿論、そのメッキを剥がそうという人物が居て
その思いが
あればこそでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
歴史の真実を追求する、という強い意志がなければ、外国によって「つくられた歴史」が、我が国の教科書にも載るようになってしまいます。
俗説として一般的に有名なのは、「称徳天皇は、始めのうちは藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされ、その後は称徳天皇の愛を一身に受けた道鏡が天皇になろうという野心を持った」というものですが、私はこのような話は「有り得ない」と考えます。
まず、称徳天皇と藤原仲麻呂の関係ですが、これまでに書いたように、両者はむしろ対立関係にありました。藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ることによって、称徳天皇を差し置いて政治の実権を独占していたからです。
その後、専横を強めた仲麻呂改め恵美押勝が、新羅征討まで試みるようになったことに対して、亡国の危機を救うために称徳天皇が立ち上がられ、政界に復帰したというのが本来の姿です。また、称徳天皇と道鏡の関係についても、当時の「常識」として有り得ません。なぜそのように断定できるのでしょうか。
当時の我が国の仏教で不足していたのは「戒律」であり、それを補うために、唐の高僧であった鑑真が来日したのは先述したとおりですが、戒律の中でもっとも重要なもののひとつに「異性と通じてはならない」というのがあります。
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ぴーち 称徳天皇の俗説については
私は今回初めて伺いました。
あくまで私の勝手な推測ですが
女性天皇ということで
当時としても
かなりの注目を集めていたと思うのです。
そんな中、面白可笑しく話をでっち上げる
輩は必ず出てくるものと思います。
今で言うとマスコミが有る事無い事
話を作り、そうして作られた架空の人物像だけが一人歩きしてしまい、それが定説となってしまう
ことが当時も起こったのではないかと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えは果たして的を射ておられるでしょうか。
次回にその結論を述べます。
光仁天皇はもちろん皇室の血を引いておられましたが、実は天智天皇の孫にあたられました。壬申(じんしん)の乱以来、天武系で占められていた天皇の地位が、約100年ぶりに天智系に復帰したことになります。なお、天智天皇の血統は、現代の皇室にも受け継がれておられます。
光仁天皇は、白壁王の時代に他の皇族が権力闘争で次々と生命を落としていくのを横目にしながら、自らは飲酒を続けて野心のないことをアピールし続けていたという苦労されたご経験の持ち主で、ご即位されたときには既に62歳になっておられました。
こうした経緯もあったことから、感謝のお気持ちを持たれた光仁天皇は、藤原百川や藤原永手など藤原氏の一族を重く用いられ、以後は光仁天皇とその信任を受けた藤原氏によって、律令政治の再建が目指されました。なお、藤原百川は四兄弟の宇合(うまかい)の子で、藤原永手は房前(ふささき)の子にあたります。
こうして、100年にも満たない短い間に繰り広げられた勢力争いは、最終的には藤原氏の手に引き継がれ、以後も藤原氏は政治に積極的に関わっていくことになるのです。ちなみに、称徳天皇と道鏡が禁止した墾田の私有は、光仁天皇のご即位後に再開されています。また、仏教勢力を排除する傾向は、やがて迎える「新たな時代」に向けての大きな流れのひとつとなったのでした。
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ぴーち こんばんは!
光仁天皇。
まるで赤穂浪士の討ち入りの
大石内蔵助の様みたいですね(^_^;)
もっとも、時代はそれよりも
随分前の話でしょうから、内蔵助のほうが
真似たのかもw
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、言われてみれば…ですね。
900年以上の時を超えたロマンがあったのかもしれません。
ちょうどそのとき、769年に北九州の大宰府から「道鏡が天皇の位につけば天下は太平になる」との宇佐八幡宮(うさまちまんぐう、大分県宇佐市)からの神託(しんたく、神からのお告げのこと)があったとの報告がありました。
称徳天皇は大いに喜ばれ、その真偽を和気清麻呂(わけのきよまろ)に確認させました。しかし、和気清麻呂は、称徳天皇のご期待に反して「皇位は神武(じんむ)天皇以来の皇統が継承すべきである」との神託を持ち帰りました。
称徳天皇の逆鱗(げきりん)に触れた和気清麻呂は、名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と無理やり改名させられたうえ、大隅(おおすみ、現在の鹿児島県)に追放されてしまいました。これを「宇佐八幡宮神託事件」といいます。
道鏡への皇位継承の夢が破れた称徳天皇は、そのショックが尾を引かれたのか、やがて重い病となられ、770年に53歳で崩御されました。称徳天皇の崩御によって後ろ盾をなくした道鏡は、下野(しもつけ、現在の栃木県)に追放となり、その地で亡くなりました。
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オバrev カープ、また逆転勝ち~!順調にマジックが減っています(*^_^*)
安心は出来ないけど、恐らく25年ぶりの優勝はほぼ間違いないでしょう。
本題ですが、以前から疑問に思っていたのですが、この道鏡に男系天皇としての資格はあったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 カープファンとして、今年の大活躍は嬉しい限りですね。大目標まであと少しです(^◇^)
道鏡は神武天皇の血を引いていませんので、男系天皇としての資格はありません。
この時が、皇統継続の最大の危機であったともいえるでしょう。
また765年には、それまでの墾田永年私財法によって過熱していた私有地の拡大を防ぐために、寺社を除く墾田の私有を禁止しました。この禁止令は、率先して墾田開発を推し進めていた藤原氏に対して、特に大きな打撃を与えました。
ところで、称徳天皇は、母の一族である藤原氏による政治の専横や、それを黙認した淳仁天皇などの皇族に対して、冷ややかな目で見ておられましたが、かといって、ご自身の子孫に天皇の地位を譲ることもできませんでした。なぜなら、称徳天皇は生涯独身でいらっしゃったからです。
実は、女性天皇には「結婚してはならない」という不文律(ふぶんりつ、文章として成り立っていないが、暗黙のうちに守られている約束事のこと)がありました。
21世紀の現代ならばともかく、当時の女性は男性によって「支配される」ことが一般的でした。ということは、仮に女性天皇に夫君(ふくん)がおられる場合には、「天皇」を支配する「天皇」が存在することになり、律令政治に支障が出ると考えられていたのです。
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ぴーち こんばんは!
女性が天皇になるという
条件にはなかなか大変なものがあるのですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
明治以降の皇室典範で、天皇は男性のみとされた理由もここにあるかと思われます。
しかし、この政策は、仮に新羅征討に成功したとしても、やがて勢力を立て直した唐によって巻き返されるのは必至なうえに、我が国が唐に攻め込まれる口実を与えてしまいかねないという、極めて危険なものであったことから、およそ100年前に起きた白村江(はくすきのえ)の悲劇をまた繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が次第に高まりました。
こうした中で、最大の後ろ盾であった光明皇太后が760年に死去され、さらには病に倒れられた孝謙上皇(上皇=じょうこうとは「退位された天皇」という意味)が、僧の道鏡(どうきょう)の祈祷(きとう)によって健康を回復されると、上皇が次第に影響力を高められた一方で、恵美押勝の勢力が急速に衰えていきました。
あせった恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと764年に反乱を計画しましたが、未然に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位となり、淡路(あわじ、現在の兵庫県淡路島)に追放されました。これらの事件を「恵美押勝の乱」といいます。
天皇の位には、孝謙上皇が重祚(ちょうそ)され、称徳(しょうとく)天皇となられました。なお、淳仁天皇は称徳天皇によって崩御後も贈り名を与えられず、長らく「淡路廃帝(あわじはいたい)」と呼ばれました。「淳仁天皇」と追号されたのは、明治になってからのことです。
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ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅(しらぎ)より下になっていることに対して猛烈に抗議し、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。
席次の件といい、また鑑真を密かに渡日させたことといい、気骨(きこつ)ある人物でなければ外交官は務まらないのは、今も昔も同じなのかもしれませんね。
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ぴーち こんばんは!
鑑真の彫刻は
確かに盲目の状態で残されていますよね。
鑑真は、今で言えば
外交官の役割と同等だったのですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。鑑真が我が国に遺した功績は計り知れないと思います。
しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは、大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら、嵐にあって難破してしまいました。
5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
752年に遣唐大使の藤原清河らが来唐し、翌年に帰国する際に、鑑真は船に同乗させてくれるよう依頼しましたが、渡日を許さない玄宗皇帝の意を受けた藤原清河は、これを拒否しました。
しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で、密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河と阿倍仲麻呂を乗せた船が難破した一方で、無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。
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命からがら長安まで戻った仲麻呂は、その後もついに帰国することなく、770年に唐で73歳の生涯を閉じました。
そんな彼が残した望郷の和歌は、小倉百人一首にも取り上げられ、長く我が国で知られています。
「天(あま)の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠(みかさ)の山に いでし月かも」
ところで、阿倍仲麻呂が帰国しようとして失敗に終わった際に、別の船に乗っていたため、無事に我が国にたどりついた唐の高僧がいました。鑑真(がんじん)のことです。
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