630年に舒明(じょめい)天皇が始められた遣唐使(けんとうし)は、一時期の中断を経て702年に復活すると、894年に廃止されるまで長く続けられました。
大陸の政治制度や文化を学ぶために、多くの留学生が唐へ渡りましたが、造船や航海技術が未熟であった当時は、遣唐使による航海は命がけであり、中には帰国できずに、そのまま唐で生涯を終えた留学生もいました。
717年に吉備真備(きびのまきび)らが入唐(にっとう)した際、彼らに同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得ましたが、才能が高かったゆえに、皇帝がなかなか仲麻呂の帰国を許しませんでした。
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ぴーち こんばんは!
遣唐使の中断や廃止は
帰国出来ない者が居たために
そのような措置が取られたのですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 遣唐使の中断は、唐・新羅の連合軍と白村江の戦いで我が国が敗れた後、新羅との国交回復を優先したために、唐との関係が一時的に断絶したのが主な理由です。また、遣唐使の廃止は、唐の政情不安によって、危険な航海を伴ってまで留学する必要性がなくなったからです。
この結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライバルを次々と倒していきました。755年には、朝廷を誹謗(ひぼう、悪口を言うこと)したという密告によって、橘諸兄に左大臣を辞職させました。また757年には皇太子であった道祖王(ふなどおう)をその地位から引きずり下ろし、仲麻呂の長男の未亡人と結婚させた大炊王(おおいおう)を皇太子に立てました。
これらの動きに反発した、橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、同じ757年に仲麻呂を除こうと反乱を企(くわだ)てましたが、事前に発覚して失敗しました。この事件を「橘奈良麻呂の乱」といいます。かくして、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した仲麻呂は、ますます自己の権力を高めていきました。
その後、758年に孝謙天皇が退位され、仲麻呂と縁の深い大炊王が淳仁(じゅんにん)天皇として即位されると、淳仁天皇は仲麻呂に対して、貨幣の鋳造権や税の徴収権とともに、新たに「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を与えられました。
天皇に準ずる権力をもつことになった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣(だじょうだいじん)に相当する大師(たいし)に、皇族以外で初めて就任しました。
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ぴーち こんばんは!
藤原氏の野望の強さを伺わせる
お話ですね。
人は自分の目的を果たす為なら
なんでもするものなんですね(^_^;)
勿論、その逆に心が働けば
世のため人の為になれたものを・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
この後も、奈良時代は藤原氏の因果応報が続きます。
朝廷は行基に対して、当初は厳しい姿勢で臨みましたが後に和解し、大仏造立の際には僧侶の最高職である大僧正(だいそうじょう)に任命しました。行基は大仏造立に積極的に関わったとされていますが、惜しくも大仏完成前の749年に死去しています。
ところで、橘諸兄が政権を担当していた頃には、もう一つの大きな出来事がありました。大仏造立の詔が出された743年に「墾田永年私財法」が発布されたのです。先述のとおり、三世一身法が施行されて約20年が経過し、開墾した世代が交替する頃に、身分に応じた一定の面積の開墾した田地(でんち)を無期限に所有できることとなりました。
これによって、田地の数はようやく増加しましたが、私有地の拡大も同時に進み、公地公民制の根本を揺るがすという結果を招いてしまいました。なお、有力な貴族や東大寺などの大寺院は、地方の豪族らの協力のもとに、広大な山林や原野の開墾を進め、私有地を拡大していきました。これを初期荘園(しょきしょうえん)といいます。
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ぴーち こんばんは!
私にはよく分かりませんが
私有地化することのデメリットの一つに
現代では山林を保持することが出来なくなった
個々人が外国人に(特に中国)荒れ果てた山林の土地を売却してしまうケースが見られるように
国が管理運営していれば、見す見す外国人の手に
委ねなくても済むのにと思うんですよね
現代とこの当時の問題はまた違うのでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、当時とは全く逆の現象が起きていることになりますね。
ぴーちさんの仰るとおりだと私も思います。
次いで743年には、大仏の造立(ぞうりゅう)によって我が国の平安を築こうとする壮大な計画の下に、大仏造立の詔が出されました。
当初は紫香楽宮で計画が進められた金銅仏(こんどうぶつ)の造立は、745年に平城京に都が戻ると、場所を移して再開されました。
8世紀当時の最新の技術によって造られた大仏は、約10年の歳月を費やして752年にようやく完成し、東大寺(とうだいじ)で僧侶(そうりょ)1万人が参列した盛大な開眼供養(かいげんくよう)が行われました。
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ぴーち こんばんは!
東大寺は華厳宗=天台宗の管轄ですね。
建立された時代にはまだ力を成していた宗派でも
時代が移り変わり、色々な邪教がそこへ
入り込んでしまった事は残念な結末です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに宗派は時代によって変化しますからね。
色々なことが起きています。
橘諸兄は、唐から帰国した留学生の吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(げんぼう・※注)を重用しましたが、これに反発した、藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、740年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしました。これを「藤原広嗣の乱」といいます。
乱自体は間もなく平定されたものの、相次ぐ凶事や政情不安に動揺された聖武天皇は、この後、平城京から山背国相楽郡(やましろのくにそうらくぐん、現在の京都府木津川市)の恭仁京(くにきょう)、摂津国難波(せっつのくになにわ、現在の大阪市中央区)の難波宮(なにわのみや)、近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、現在の滋賀県甲賀市信楽町)の紫香楽宮(しがらきのみや)と相次いで都を遷(うつ)されました。
そして、長屋王のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには、仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武天皇は、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆を政策の最重要課題とされました。
※注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています。
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オバrev この話は、私が大学受験(理系です)の時は知りませんでした(・・・40年以上前ですが)が、子供の受験で初めて知りました(゜o゜;
藤原広嗣の乱って、昔から有名だったんですかね・
オバrevさんへ
黒田裕樹 藤原広嗣の乱は結構有名ですよ。
乱の減員も、乱がもたらした影響も、すべてつながっていますからね。そう考えれば結構重要な事実です。
藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は、武智麻呂が南家(なんけ)、房前が北家(ほっけ)、宇合が式家(しきけ)、麻呂が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖(しそ)となりました。
まさに我が世の春を迎えた四兄弟でしたが、その繁栄は長くは続きませんでした。彼らには過酷な運命が待っていたのです。
737年、九州地方から発生した疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が、都の平城京でも大流行しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事(きょうじ)、そしてあまりの偶然に、当時の朝廷では「長屋王のタタリが起こった」と恐怖におびえました。
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ぴーち こんばんは!
そうですね
この場合は、民衆は「祟り」だと思うでしょうけれど、
藤原四兄弟の死は
「悪因悪果」の現証そのものだったのでは無いでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もあり得ますね。
当時の朝廷では「長屋王のタタリ」と大問題になったようですが…。
ところが、翌728年に、皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、さらには四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな陰謀を計画しました。
悲しみに打ちひしがれた聖武天皇に対して「皇子が亡くなられたのは、長屋王がそうなるように呪ったからだ」と事実無根の噂(うわさ)を広めたのです。我が子を亡くして精神的に弱られていた聖武天皇は、この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用されてしまいました。
729年2月、天皇に対する反逆の罪で邸宅を軍勢に取り囲まれた長屋王は、自らの無実を訴えましたが、結局は一族とともに自殺しました。この事件を「長屋王の変」といいます。
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ぴーち こんばんは!
何時の世でも悪巧みを考える人は
まるでオセロの様に周りの人間を
自分の考えと同じ色に
染めて、包囲していくものですね・・
けれど、惜しいことに
長屋王には最後まで戦って貰いたかったですね。
諦めが早過ぎます・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > けれど、惜しいことに
> 長屋王には最後まで戦って貰いたかったですね。
> 諦めが早過ぎます・・
確かにそうでしたね。ところが、そう簡単に終わらないのが、歴史の大きな闇でもあります。詳しくは次回の更新をご覧ください。
巻き返しを図りたい藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)は、聖武天皇の后(きさき)であり、自分らの妹でもある光明子を皇后(こうごう)にしようと計画しました。
皇后は天皇の代わりに政治が行えるほか、場合によっては自らが天皇として即位できるという大変重い地位でした。しかし、律令では「皇后は皇族に限る」と明記されており、藤原氏出身の光明子が皇后になれる資格はなく、長屋王もそれを理由に四兄弟の願いを退けました。
このこともあって、長屋王と藤原四兄弟との仲は次第に険悪になっていきましたが、そんな折にとんでもない事件が起こってしまうのです。
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ぴーち こんばんは!
確かに
どんなに由緒正しいお家柄であっても
皇族でなければ皇后にはなれないというのは
根本的に超えられない壁が
存在する限り、手も足も出せませんね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 常識で考えれば、まさに仰るとおりです。
ところが、その常識が覆される日がやってくるのも、歴史の何とも言えないところでもありますね。
詳しくは後日改めて紹介いたします。
長屋王が政治を担当した当時は、人口の増加で口分田(くぶんでん)が不足し、公地公民制の基礎が揺(ゆ)らいでいました。このため、長屋王は722年に「百万町歩(ひゃくまんちょうぶ)の開墾(かいこん)計画」を立てましたが、文字どおりの「計画倒れ」に終わってしまいました。
なぜなら、計画を立てたところで、そのメリットがなければ行動に移そうとしないのが人間というものだからです。このため、長屋王は翌723年に「三世一身法(さんぜいっしんほう)」を出しました。
これは、新たに灌漑(かんがい)施設を設けて未開地を開墾した場合は三世(さんぜ)にわたり、旧来の灌漑用地を再開発した場合は本人一代を限りに、田地(でんち)の保有を認めるというものでしたが、それでも開墾はなかなか進みませんでした。
確かに自分の代や三世の間は所有が認められますが、いずれは国に返還しなければならないことを考えると、どうしても二の足を踏んでしまうからです。自分が汗水たらして開墾した土地は、自分や子孫のものとしたいのが人情でもあり、この問題は、新たに開墾した世代が次へと交替し始める約20年後に、再び大きくクローズアップされることになります。
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ぴーち おはようございます!
確かにそうかもしれませんね。
税金だとて、自分が汗水垂らして稼いだ収入の一分をどうして国に納めなければならないんだ?とボヤいている声を聞いた事が有りますが(^_^;)
直接声に出すか出さないかで
多かれ少なかれ心の中ではそう思う人が
大半なのでは無いでしょうか
それでもそれが義務化されているからこそ
渋々ながらも皆納めなければならないと思って
国民として当たり前だと言い聞かせて
納めてはいるでしょうけれど
(国の為に役立ててください!誰かの為に
使ってください!と心から願う人も
勿論いらっしゃるでしょうけれど)
それでも、今回のお話の様に
将来に向けて自分の利益が見えないものには
どうしても不満を感じてしまうのは
無理もない話ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
奈良時代の税法も、こういった「人間臭さ」で考えれば、おのずと流れが見えてきますね。
659年に生まれた不比等は、幼い頃に父である鎌足を亡くしましたが、成年後は着実に出世を重ね、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)、718年には養老律令(ようろうりつりょう)の編纂(へんさん)事業に携(たずさ)わるなど、朝廷からの厚い信任を得ました。
当時の朝廷では、707年に文武(もんむ)天皇が崩御されると、その後は文武天皇の母親で、天智(てんじ)天皇の娘でもある元明(げんめい)天皇と、元明天皇の娘で文武天皇の妹でもあり、皇室の血を引く元正(げんしょう)天皇の二人の女性天皇が相次(あいつ)いで即位されました。
女性天皇がしばらく続いたことは、結果として不比等の存在を朝廷内で大きくしました。さらに不比等は、娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇に嫁(とつ)がせると、二人の間に産まれた首皇子(おびとのみこ)に、自分の娘で宮子の異母妹(いぼまい、母親のちがう妹のこと)にあたる藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)をさらに嫁がせて、皇室と密接な関係を築きました。
こうして不比等は、自分の血を引く娘を皇室に嫁がせることで自らの地位を固めるという、かつての蘇我氏(そがし)と同じ方法で政治の実権を握ることに成功したのです。
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ぴーち こんばんは!
先日、天皇が「お気持ち」を著され
それに伴い、皇太子不在問題、先々
女性天皇に関する問題が挙げられていますよね。
素朴な疑問で恐縮ですが、
この頃の時代には女性天皇が存在したという事ですが、
現代になって女性が天皇に即位することに
どのような問題が起こるのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国における女性天皇は、いずれも神武天皇の直系にあたる「男系の女性天皇」です。これに対し、現状では「女系天皇」とわざと混同させ、皇統をないがしろにする勢力も存在します。
また、女性天皇は、本来は男性の天皇が即位されるまでの「中継ぎ」というお立場が多く、ご自身にも様々な不文律があります。そのあたりについては、いずれ今回の講座で詳しく紹介します。