寛政の改革当時に在位されておられた光格(こうかく)天皇は、閑院宮家(かんいんのみやけ)からご即位されましたが、天皇の父君であられる閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)のお立場が、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の規定によって、摂関家(せっかんけ)より下となっていました。
このため、天皇の御尊父(ごそんぷ)が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっており、事態を重く見られた光格天皇は、父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
「皇位についていない皇族に尊号を贈る」というのは、鎌倉時代の後高倉院(ごたかくらいん)と室町時代の後崇光院(ごすこういん)という先例が過去に2回もあり、特に問題はないだろうと思って朝廷側は幕府にお願いしたのですが、定信によって問答無用で拒否されてしまいました。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
今日のお話はどうも私にとっては雲の上の話で
イマイチ、ピンと来ない事をお許しください(^_^;)
どうして、過去2回の例があったにも関わらず
拒否してしまったのでしょうかね?
完全に定信の独善的な考え方による結果だったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 完全に定信の独善的な考え方による結果だったのでしょうか?
朱子学においては主君への「忠」が重視されていました。一方、天皇のご尊父への太上天皇の尊号を贈ることは「孝」になります。定信は、幕府の封建体制の確立のために、「孝」よりも「忠」を重視したという見方もありますね。いずれにせよ、この際の強引な手法が、後々にまで尾を引くことになります。
オバrev う~ん、融通が利かないというか、普段の仕事でも思いますが、完璧主義と言うのは、どこかで無理が来る気がします。
かと言って、私のように大雑把過ぎてもいけませんけど^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 大雑把な方が国民を幸福にすることもありますからね。
この場合はあまりにも融通が利かなさ過ぎでした。