寛政異学の禁によって、諸藩も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学が衰退する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策ぶりです。
ちなみに、湯島聖堂は定信が老中を退任した後の寛政9(1797)年に幕府の直営となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)と称されました。昌平坂学問所はもともと幕臣の子弟の教育所として発足しましたが、後に藩士や牢人(ろうにん)の受け入れも許したことで、全国からの英才を集めて活気にあふれました。
なお、昌平坂学問所は現在の東京大学の流れにつながるほか、明治以降に同じ場所に設立された東京師範学校や東京女子師範学校は、現在の筑波大学やお茶の水女子大学の源流となっています。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
祖父である吉宗の考え方とは
全く逆行した考え方を定信はしていたのですね。
何かこの血筋の間にあったのでしょうかね?(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 恐らくは、血筋よりも朱子学への没頭が大きかったのではないかと思われます。
学問も時としてはマイナスに作用しますね。