これらは、享保の改革の際と同じように、この時代に「寛政文化」と呼ばれるものが存在しない大きな原因となりましたが、その一方で、節約で浮いた町費(ちょうひ)の七割を積み立てさせ、江戸町会所(えどまちかいしょ)に運用させることで、飢饉の際などの非常時の貧民の救済に利用しました。これを七分積金(しちぶつみきん)といいます。
また、寛政の改革が始まった頃には天明の大飢饉がまだ続いており、庶民の暮らしは不安定になっていました。そこで、定信は飢饉に備えて各地に社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)をつくらせて、穀物を蓄(たくわ)えさせました。これを囲米(かこいまい)といいます。
この他、定信は現代の刑務所の原点ともいえる、無宿人(むしゅくにん)への職業訓練施設としての石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)を設置しましたが、これは定信自身の案ではなく、池波正太郎(いけなみしょうたろう)の小説「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」で有名な、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)が考えたものです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
おお!
鬼平犯科帳ですかw
我が家の母はほぼ毎日再放送を観ています(^_^;)
長谷川平蔵は、実在する人物だったんですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、実在の人物です。
定信の部下ではありましたが、折り合いは悪かったようですね。