定信は自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは、当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨んでいました。
そのこともあったからなのか、定信は自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策を、ことごとく打ち切りにしてしまったのです。
老中に就任した定信は、祖父にあたる徳川吉宗を理想とする様々な政策を行いました。彼の政治は「寛政の改革」と呼ばれていますが、その中心は徹底した緊縮財政をはじめとする、前政権の田沼時代の全否定でした。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
松平定信も、悪いことは人のせいに
するただの愚人でしたか。
同じ事を二人の人間が同時にしたとして
片方は何故か持て囃され、
片方は何故か罵られたりする。
そう言う運気の極めて悪い人物が居ますが、
これも勿論そう言う結果を招くそれぞれの
善業と悪業が存在する訳ですが、
なかなか人間は、そう言う風に考えられる人ばかり
は居ないので、争いごとが絶えないのは
世の常ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、仰るとおりですね。
このような政治家に世をまかせたらどうなるのか、これから詳しく紹介します。