そして、当時は「天災が起きるのは政治を行っている人間のせいである」という考えが信じられていたので、これらの責任の一切を意次が背負わなければならなかったのです。
一揆や打ちこわしが多発する殺伐(さつばつ)とした世が続くなかで、意次の身にさらに悲劇が起きました。息子で若年寄(わかどしより)の田沼意知(たぬまおきとも)が、天明4(1784)年に江戸城内で襲撃を受けて死亡したのです。
意次の悲劇はさらに続き、後ろ盾(だて)となっていた将軍家治が天明6(1786)年に死去すると、政治に対する非難が殺到していた意次は老中を辞めさせられ、失意のうちに天明8(1788)年に亡くなりました。
そして、15歳で11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)を補佐するかたちで、意次にかわって天明7(1787)年に老中となったのが、松平定信だったのです。
※下記の映像は6月14日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
何時の時代も、悪い事の原因は「人のせい」
だと思うのは、人間の業ですね(^_^;)
仏教的に解釈すると、この世で自分の身に起きた
すべての悪因は、過去世で自分自身が積んできた業が原因だとは誰もが思いもよらない所がまた悲しい性でもあります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何時の時代も、悪い事の原因は「人のせい」
> だと思うのは、人間の業ですね(^_^;)
> 仏教的に解釈すると、この世で自分の身に起きた
> すべての悪因は、過去世で自分自身が積んできた業が原因だとは誰もが思いもよらない所がまた悲しい性でもあります。
確かに仰るとおりですね。
現世にも通じる教訓だと思います。