東日本では小判などの金貨が中心の「金遣(きんづか)い」であり、両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)といった単位で通用していたのに対して、西日本では銀貨が中心の「銀遣い」で、しかも銀を貫(かん)や匁(もんめ)といった重さの単位で、量をはかって通用させる方法を採用していました。
このため、東西で取引を行おうと思えば両替をしなければならず、また金と銀との相場が必ずしも一定しなかった(これを変動相場制といいます)ために、金銀交換の制約になっていました。
そこで、意次は明和2(1765)年に明和五匁銀(めいわごもんめぎん)をつくり、実際の質や量に関係なく5匁の銀として通用させ、明和五匁銀を12枚、つまり60匁で金1両と交換できることとして、金と銀とを初めて一本化させましたが、残念ながらあまり流通せずに終わりました。
しかし、あきらめなかった意次は、明和9(1772)年に南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん)をつくり、朱という「金の単位をもつ銀貨」を流通させることに成功しました。南鐐弐朱銀8枚が金1両と同じ価値となり、我が国での通貨の一本化がさらに進められることになったのです。なお、南鐐とは「上質の銀」という意味です。
※下記の映像は6月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
金と銀の価値の差を
金は上の下。銀は上の上
くらいの所に、もってくれば
丁度釣り合うという事なのでしょか^^
そう言えば、ヨーロッパのユーロ通貨の時も
きっと大変だったのでしょうね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 南鐐二朱銀は、銀貨を金貨と同じ価値と認めたことが大きかったようですね。
ユーロに関しては、イギリスが参加しないなど、当初から色々ありますね。