意次は若い頃から、後に9代将軍となる吉宗の子の徳川家重(とくがわいえしげ)の小姓(こしょう、身の回りの世話をする役目のこと)に抜擢(ばってき)され、家重の信頼を受けるとともに、実力を買われて出世していきました。宝暦(ほうれき)元(1751)年には、家重の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)に就任し、宝暦8((1758)年には1万石の大名となりました。
家重は宝暦10(1760)年に隠居して、子の徳川家治(とくがわいえはる)が10代将軍に就任しましたが、家重が「意次は優秀な人物だから引き続き用いるように」と家治に勧めたこともあって、意次は家治からも厚い信頼を受けました。
その後、明和(めいわ)4(1767)年に正式に側用人(そばようにん)となり、明和9(1772)年には老中(ろうじゅう)を兼任するまで出世を重ねたのみならず、石高(こくだか)も最終的に5万7,000石にまで増え、遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)の相良(さがら)に新たに城を築きました。なお、意次が全盛期の頃は「田沼時代」と呼ばれています。
意次がここまで出世できたのは、二人の将軍に可愛がられたこともありますが、やはり彼自身の能力が極めて高かったのが主な原因でしょう。では、その意次の実力とはどのようなものだったのでしょうか。
※下記の映像は6月5日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
目上の人にかわいがられるということは
一つの才能ですよね^^
ただそれには確かに実力が伴わなわなければ
本物にはなれないのでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 目上の人にかわいがられるということは
> 一つの才能ですよね^^
> ただそれには確かに実力が伴わなわなければ
> 本物にはなれないのでしょうけれど。
そのとおりですね。単なるおべっか使いではすぐに化けの皮がはがれます。