飢饉によって、農村や都市部では貧窮者(ひんきゅうしゃ)があふれ返り、また追いつめられた農民や庶民らが、激しい一揆や商家に対する打ちこわしを続発させました。
このような全国的な大飢饉に対して、幕府や各藩は適切な救民対策を行うことはなく、逆に商家と結託してコメを買い占めることで、暴利をむさぼる行為が目立ちました。
「天下の台所」と呼ばれ、全国から様々な物資が集まるはずの大坂においても、容赦ない買い占め行為によってコメ不足となり、多くの人々が飢えに苦しみました。そんな様子を見かねた、大坂町奉行の与力(よりき)をかつて務めていた一人の男が、何度も窮状(きゅうじょう)を奉行所へ訴えましたが、幕府への点数稼ぎのために積極的に江戸へコメを回していた役人が、彼の献策に聞く耳を持つはずがありませんでした。
その元与力の男の名を、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)といいました。
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ぴーち こんにちは!
大塩平八郎と言う名前は歴史で
勉強させて頂きましたが、
元与力であったという経緯までは
全く存じませんでした。
しかも窮地だというのに、幕府への
点数稼ぎの為にコメを回していた
役人が居たという事自体
呆れてモノが言えませんね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この当時の幕府の政治体制を思えば、崩壊が近かったのはまぎれもない事実ですね。
大塩平八路の怒りも当然です。
改革の多くは農村の復興を主な目的として、新田を開発して年貢収入の増加を図ったり、地方の特産物の生産を奨励(しょうれい)して藩の専売制としたりしました。また、各地で藩校を創設して、新たな人材を積極的に育成しました。
改革に成功した各藩主は、名君として評判を集めることになりました。肥後の細川重賢(ほそかわしげたか)や、秋田の佐竹義和(さたけよしまさ)、あるいは米沢の上杉治憲(うえすぎはるのり、別名を鷹山=ようざん)らの名前を挙げることが出来ます。
特に上杉治憲は、破綻(はたん)寸前であった米沢藩の財政を立て直したことでその名が広く知られており、藩主の座を後継者に譲った際の伝国(でんこく)の辞や、その際に贈ったとされる「生(な)せば生(な)る 成(な)さねば生(な)らぬ 何事(なにごと)も 生(な)らぬは人の 生(な)さぬ生(なり)けり」という歌が有名です。
なお、治憲の歌は「何事もやればできるし、やらなければ何も始まらない。何もできないのは自分がやらないからである」という意味です。必死になってやれば、出来ないことは何もない、ということですね。
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また、江戸近辺の関東の農村は、もともと所領が複雑に入り組んでおり、無宿人(むしゅくにん)や博徒(ばくと)がはびこって治安が悪化しました。このため、家斉は文化2(1805)年に関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、または「でやく」)を新設して、江戸周辺の警察機能を強化しました。
さらに文政(ぶんせい)10(1827)年には、幕府の直轄地や私領、あるいは寺社領を問わずに数十ヵ所の村々を組み合わせた寄場(よせば)組合を編成させて、農村の秩序を維持するとともに、地域の治安や風俗への対策を行いました。
なお、関東取締出役は関東の八つの国、すなわち八州(はっしゅう)をくまなく巡察したことから、別名を「八州廻(まわ)り」とも呼ばれており、その活躍ぶりが、現代においても時代小説の題材としてよく取り上げられています。
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せっかく将軍になったというのに、長いあいだ政治の実権を持てなかった家斉でしたが、将軍にとってもう一つの重要な責務である「子孫を残す」ための時間には余裕があったことから、家斉は死去するまでに50人以上の子をもうけました。
やがて、文化(ぶんか)14(1817)年に松平信明が死去した頃から、自分の思いどおりの政治を行えるようになった家斉は、水野忠成(みずのただあきら)を老中にして、質の落とした貨幣を大量に流通させて、大奥の経費などを増大させました。
貨幣の質を落としたことで物価は上昇しましたが、同時に経済の活発化をもたらし、全体の金回りが良くなったことで好景気となり、後に「化政(かせい)文化」と呼ばれた華やかな文化が生まれることになりました。
天保8(1837)年、家斉は将軍の地位を子の徳川家慶(とくがわいえよし)に譲りましたが、その後も大御所として政治の実権を握り続けました。家斉が活躍した時代は、別名を「大御所時代」、あるいは「大御所政治」とも呼ばれています。
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ぴーち こんばんは!
将軍 家斉はなかなかの人物だったのですね!
自分が表舞台で活躍出来ない時には
子孫反映に勤しみ
ようやく活躍出来る時が来た時には
存分に器量を発揮した訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 家斉は自己の贅沢のために小判改鋳を行ったという見方もあるようですが、政治は結果でもありますから、化政文化が花開いたことは評価すべきだと思います。
オバrev 家斉の精力って凄い(☆☆)!!
それにしても、貨幣価値を落としてインフレにするのは良くないと、学校で教わった記憶があるけど、経済に疎い学校の先生だから、本当の意味が分からなかったんでしょうかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 家斉の精力って凄い(☆☆)!!
確かにそうですよね。あやかりたいとまでは思いませんが…。ちなみに彼は「オットセイ将軍」とも呼ばれていたそうです。
> それにしても、貨幣価値を落としてインフレにするのは良くないと、学校で教わった記憶があるけど、経済に疎い学校の先生だから、本当の意味が分からなかったんでしょうかね?
そのとおりですね。元禄文化の引き金となった、綱吉時代の小判改鋳も、庶民の生活が苦しくなったと決めつけてますから(呆)。
意次は老中を追われてからわずか数年で亡くなり、自己の非難に対する弁解の機会が永久に失われてしまいました。一方、定信は老中を辞めさせられた後も、白河藩主として30年以上も生き続けて、その間に多くの著作を残すことで、田沼時代を徹底的に非難することができました。
さらに、幕府は身分による秩序を重視していたので、低い出自から成り上がった意次よりも、将軍吉宗の孫という血筋を持つ定信の主張を優先する傾向があり、加えて定信が幕府の公式学問である朱子学の優秀な学者であったことも、定信によって意図的につくられた意次の「悪人像」が、後世にまで残ってしまう原因となってしまったのです。
ところで、一時は意次による政治を激しく憎んだ庶民も、定信による寛政の改革が失敗したことで、後には田沼時代を懐かしみ、以下の狂歌(きょうか、日常を題材に洒落や風刺を盛り込んだ短歌のこと)を残しています。
「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁(にご)りの 田沼こひしき」
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その背景には「商人など不要だ。国には政治家と農民だけがいればいい」という極端な理想主義者としての本質がうかがえるのですが、実は20世紀の海外においても、定信とほぼ同じ考えを持つ政治家が存在しました。皆さんは誰かご存知ですか。
それはカンボジアのポル・ポトです。ポル・ポトは定信と同じく「国には政治家と農民だけがいればいい」という思想を持っており、そのために商人や教師、あるいは医者などのいわゆるインテリ層を次々と虐殺(ぎゃくさつ)しました。
この結果、人口800万人の国で約200万人がこの世から消えたとされています。ポル・ポトのように国民を虐殺したわけではありませんが、思想的には一致することから、定信は「元祖ポル・ポト」と呼ばれることもあります。
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しかも定信は、主(あるじ)がいなくなった相良城を、石垣ひとつに至るまで徹底的に破壊したのです。城というものは一度建てれば公有財産になりますから、普通はそんな無駄なことはしませんし、そもそも取り壊す費用も馬鹿になりません。
それなのに、なぜ定信はこんな暴挙を行ったのでしょうか。思い当たる理由としては、相良城が意次自身によって建てられた新しい城だったからであり、田沼家を追い出しただけでは飽(あ)き足らず、まさに「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」とばかりに、意次の痕跡(こんせき)をこの世から抹消したかったからに違いありません。
定信は熱心な朱子学者でしたが、朱子学の由来は儒教にあります。すべてがそうであるとは限りませんが、儒教の信徒はネチネチとした陰湿で粘着質な性格を持っていることが多く、定信による信じられないような意趣返しも、その一環だといえるのです。
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飢饉で生産量が減ったコメを可能な限り全国に分散して、凶作の地域での餓死者を一人でも減らそうとした意次の苦心の策だったのですが、そんな意次をあざ笑うかのように、定信は大坂の米市場に人を派遣してコメを買い占め、自分の領地まで運びました。
この結果、白河藩では確かに一人の餓死者も出しませんでしたが、無理に買い占めに走った分、米価が異常につり上がってしまい、他の藩がコメを買えなかったこともあって、餓死者の数がさらに増えてしまいました。白河藩における「餓死者を一人も出さなかった」という成果は、他の藩やそこで暮らす多くの領民の犠牲の上に成り立っていたのです。
国内全体のことを一切考えず、自分が治める白河藩さえ良ければ「後はどうなってもかまわない」。このような人物のどこが「名君」だというのでしょうか。しかも、定信は意次を失脚させた後で、常識では考えられない酷(むご)い仕打ちを行っているのです。
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ぴーち こんばんは!
そうですね。
情報が他に漏れない事をいい事に
自分の名声だけを
吹聴した手口は、許しておけない行為ですよね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもってそのとおりです。
しかも、そのあともやり過ぎな行為が…。
では、そんな定信がなぜ田沼意次を押しのけて老中にまで出世できたのでしょうか。定信は白河藩の藩主でもありますが、多くの人々が被害を受けた天明の大飢饉の際に、白河藩では「一人の餓死者も出さなかった」ということで、その政治ぶりが評価されたのも原因の一つです。
確かに餓死者が出なかったことは素晴らしいことかもしれません。しかし、大飢饉が続いていたうえに、当時は鎖国と呼ばれた状態で大きな輸出入もできなかったのですから、国全体のコメの生産量が少ないことに何ら変わりはないのです。
そんな中で、一つの藩だけがコメを集めまくったら、他の藩のコメの流通量がますます少なくなりはしないでしょうか。また、定信によるコメの一方的な買い占めを、果たして幕府が黙って許可したでしょうか。
実は、定信の行為は「重大な法令違反」だったのです。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、定信は自分が関わっている藩だけが
良くなれば、自分の評価も高まると踏んでいたのですね。
然しながら、一時的には良い評判は付くかも
知れませんが、狭い日本ですので
直ぐに後からバレてしまいそうな愚かさが
伺えますが(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時はマスコミのような報道機関もありませんでしたから、すべては闇の中でした。
とはいえ、定信の行為はあまりにもひどすぎますね。
11代将軍である徳川家斉は、吉宗が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として、自身の血統から新たに設立した御三卿の一橋家(ひとつばしけ)の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して、前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて寛政5(1793)年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は約6年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も、老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(いろう)」として政治を行っています。
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ぴーち こんばんは!
確かに自分の理想だけを押し付けてみても
結局は何処かでその理想も引きずり落とされてしまう
時が来るものですね。
相手や周りの意見にも耳を傾ける姿勢が
定信には足りなかったのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、全く不足していましたね。
まさに反面教師です。