寛政の改革当時に在位されておられた光格(こうかく)天皇は、閑院宮家(かんいんのみやけ)からご即位されましたが、天皇の父君であられる閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)のお立場が、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の規定によって、摂関家(せっかんけ)より下となっていました。
このため、天皇の御尊父(ごそんぷ)が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっており、事態を重く見られた光格天皇は、父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
「皇位についていない皇族に尊号を贈る」というのは、鎌倉時代の後高倉院(ごたかくらいん)と室町時代の後崇光院(ごすこういん)という先例が過去に2回もあり、特に問題はないだろうと思って朝廷側は幕府にお願いしたのですが、定信によって問答無用で拒否されてしまいました。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
今日のお話はどうも私にとっては雲の上の話で
イマイチ、ピンと来ない事をお許しください(^_^;)
どうして、過去2回の例があったにも関わらず
拒否してしまったのでしょうかね?
完全に定信の独善的な考え方による結果だったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 完全に定信の独善的な考え方による結果だったのでしょうか?
朱子学においては主君への「忠」が重視されていました。一方、天皇のご尊父への太上天皇の尊号を贈ることは「孝」になります。定信は、幕府の封建体制の確立のために、「孝」よりも「忠」を重視したという見方もありますね。いずれにせよ、この際の強引な手法が、後々にまで尾を引くことになります。
オバrev う~ん、融通が利かないというか、普段の仕事でも思いますが、完璧主義と言うのは、どこかで無理が来る気がします。
かと言って、私のように大雑把過ぎてもいけませんけど^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 大雑把な方が国民を幸福にすることもありますからね。
この場合はあまりにも融通が利かなさ過ぎでした。
寛政異学の禁によって、諸藩も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学が衰退する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策ぶりです。
ちなみに、湯島聖堂は定信が老中を退任した後の寛政9(1797)年に幕府の直営となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)と称されました。昌平坂学問所はもともと幕臣の子弟の教育所として発足しましたが、後に藩士や牢人(ろうにん)の受け入れも許したことで、全国からの英才を集めて活気にあふれました。
なお、昌平坂学問所は現在の東京大学の流れにつながるほか、明治以降に同じ場所に設立された東京師範学校や東京女子師範学校は、現在の筑波大学やお茶の水女子大学の源流となっています。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
祖父である吉宗の考え方とは
全く逆行した考え方を定信はしていたのですね。
何かこの血筋の間にあったのでしょうかね?(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 恐らくは、血筋よりも朱子学への没頭が大きかったのではないかと思われます。
学問も時としてはマイナスに作用しますね。
しかし、棄捐令はいわゆる徳政令と同じ意味を持ちますから、旗本や御家人の収入を増やすといった抜本的な改革がない限り、結局は一時しのぎに過ぎないばかりでなく、再び借金をする際には、棄捐令で痛い目にあった札差から断られる可能性もあり、逆効果に終わってしまうという一面もありました。
定信は田沼時代に進められた重商主義を徹底的に否定し、吉宗の時代よりも厳しい重農主義の政治を行いました。その中の一つに旧里帰農令(きゅうりきのうれい)があります。これは、地方から江戸に流れてきた農民を無理やり元の農村に帰すという法令ですが、そのままの政策で農村へ帰されたところで、待っているのは今までと同様の苦しい生活の日々でしかありません。
重農主義に戻すということは、吉宗の時代と同じく現実には不可能な「米本位制」を続けるということですから、いくら農村に帰したところで、いずれは再び江戸へ出て来ざるを得なくなるというわけです。かくして旧里帰農令は失敗に終わり、後の天保の改革の際に、同じような法令である「人返しの法」を出す結果になってしまいました。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
根本的な解決に至らないばかりか、かえって
それでは反感をかわれてしまいますよね。
急場しのぎで思いついた政策なのかも知れませんが、ある時代ではそれが成功しても、違う時代では
全く有効性を見いだせなくなるものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、根本的な改革をなしえない以上、全く無意味ですよね。
これらは、享保の改革の際と同じように、この時代に「寛政文化」と呼ばれるものが存在しない大きな原因となりましたが、その一方で、節約で浮いた町費(ちょうひ)の七割を積み立てさせ、江戸町会所(えどまちかいしょ)に運用させることで、飢饉の際などの非常時の貧民の救済に利用しました。これを七分積金(しちぶつみきん)といいます。
また、寛政の改革が始まった頃には天明の大飢饉がまだ続いており、庶民の暮らしは不安定になっていました。そこで、定信は飢饉に備えて各地に社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)をつくらせて、穀物を蓄(たくわ)えさせました。これを囲米(かこいまい)といいます。
この他、定信は現代の刑務所の原点ともいえる、無宿人(むしゅくにん)への職業訓練施設としての石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)を設置しましたが、これは定信自身の案ではなく、池波正太郎(いけなみしょうたろう)の小説「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」で有名な、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)が考えたものです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
おお!
鬼平犯科帳ですかw
我が家の母はほぼ毎日再放送を観ています(^_^;)
長谷川平蔵は、実在する人物だったんですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、実在の人物です。
定信の部下ではありましたが、折り合いは悪かったようですね。
また寛政3(1791)年には、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が、我が国における海岸防備の必要性を説いた「海国兵談(かいこくへいだん)」を著しましたが、定信は「世間を騒がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。だとすれば、我が国は現実より半世紀以上も前に開国し、幕末に黒船に迫られて、相手の言われるままに欠陥だらけの不平等条約を結ばずに済んだかもしれません。それを思えば、海国兵談の発禁処分は、定信による「痛恨の失政」でした。
また、定信は海国兵談の他にも、政治を風刺(ふうし)したり、批判したりする書物の発行を禁じるとともに、黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)なども風俗を乱すという理由で発禁処分にしました。これらの命令は出版統制令と呼ばれています。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですよね。
恨みや妬みの気持ちだけに集中していると
他の大事な事を全て見失ってしまうことは
よくある話ですよね。
憎悪の炎を燃やしているうちに、自分の身も
燃やしてしまう羽目になるという事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
しかも、そのことが当人のみならず、我が国全体に大きな影響を及ぼしますので…。
オバrev トップの決断は、国の将来を左右するんですねぇ。
それだけ、トップに立つ人は、人の意見を聞く耳を持つ必要がある気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
他人の意見を聞かない独裁者に国政をまかせると、ろくなことがないのは歴史が証明していますね。
定信は自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは、当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨んでいました。
そのこともあったからなのか、定信は自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策を、ことごとく打ち切りにしてしまったのです。
老中に就任した定信は、祖父にあたる徳川吉宗を理想とする様々な政策を行いました。彼の政治は「寛政の改革」と呼ばれていますが、その中心は徹底した緊縮財政をはじめとする、前政権の田沼時代の全否定でした。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
松平定信も、悪いことは人のせいに
するただの愚人でしたか。
同じ事を二人の人間が同時にしたとして
片方は何故か持て囃され、
片方は何故か罵られたりする。
そう言う運気の極めて悪い人物が居ますが、
これも勿論そう言う結果を招くそれぞれの
善業と悪業が存在する訳ですが、
なかなか人間は、そう言う風に考えられる人ばかり
は居ないので、争いごとが絶えないのは
世の常ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、仰るとおりですね。
このような政治家に世をまかせたらどうなるのか、これから詳しく紹介します。
そして、当時は「天災が起きるのは政治を行っている人間のせいである」という考えが信じられていたので、これらの責任の一切を意次が背負わなければならなかったのです。
一揆や打ちこわしが多発する殺伐(さつばつ)とした世が続くなかで、意次の身にさらに悲劇が起きました。息子で若年寄(わかどしより)の田沼意知(たぬまおきとも)が、天明4(1784)年に江戸城内で襲撃を受けて死亡したのです。
意次の悲劇はさらに続き、後ろ盾(だて)となっていた将軍家治が天明6(1786)年に死去すると、政治に対する非難が殺到していた意次は老中を辞めさせられ、失意のうちに天明8(1788)年に亡くなりました。
そして、15歳で11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)を補佐するかたちで、意次にかわって天明7(1787)年に老中となったのが、松平定信だったのです。
※下記の映像は6月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
何時の時代も、悪い事の原因は「人のせい」
だと思うのは、人間の業ですね(^_^;)
仏教的に解釈すると、この世で自分の身に起きた
すべての悪因は、過去世で自分自身が積んできた業が原因だとは誰もが思いもよらない所がまた悲しい性でもあります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何時の時代も、悪い事の原因は「人のせい」
> だと思うのは、人間の業ですね(^_^;)
> 仏教的に解釈すると、この世で自分の身に起きた
> すべての悪因は、過去世で自分自身が積んできた業が原因だとは誰もが思いもよらない所がまた悲しい性でもあります。
確かに仰るとおりですね。
現世にも通じる教訓だと思います。
しかも、噴き上げられた灰が成層圏(せいそうけん、対流圏の上にある高さ約10~50キロの大気層のこと)にまで達し、その後も長く留まって日光の照射の妨げになったことで、不作が助長されて大飢饉(だいききん)になってしまったのです。
この飢饉は、当時の年号から天明の大飢饉と呼ばれ、噴火以前の天明2(1782)年から天明8(1788)年まで長く続きました。
なお、浅間山と同じ年の1783(天明3)年には、アイスランドのラキ火山が同じように噴火しており、天明の大飢饉の理由の一つに数えられるとともに、北半球全体が冷害になったことで、1789(寛政元)年のフランス革命の遠因にまでなったと考えられています。
※下記の映像は6月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
悪い事もまた一つが起こると
次から次へと連鎖的に起こるものですね。
こういう時は、大体時の政治家が槍玉にあがる事が
多そうですが、意次はどうだったのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こういう時は、大体時の政治家が槍玉にあがる事が
> 多そうですが、意次はどうだったのでしょうか・・
残念ながら、仰るとおりの流れになります。
不幸の連鎖のおまけつきで…。
また、西洋医学の解剖書を訳した「解体新書(かいたいしんしょ)」が、前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって完成されたのも、安永(あんえい)3(1774)年の田沼時代の頃ですし、エレキテルを復元するなど物理学の研究を進めた平賀源内(ひらがげんない)や、江戸時代の俳諧(はいかい)の巨匠の一人であり、画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん)もこの頃の人物です。
これらのように、画期的かつ斬新な政治を行ったことで経済や文化を発展させ、幕府財政の好転をもたらした意次でしたが、政策の展開を苦々しい思いで見ている人物も少なくありませんでした。
彼らは、商人の力を借りることは恥であるとする「儒教と商行為」の呪縛から逃れられない人々や、元々は紀州藩の足軽に過ぎなかった家の男が老中まで出世しやがるとは何事だ、この「成り上がり者」めが、と意次を嫉妬(しっと)の炎で見つめていた、旧来の身分の高い人々でした。
また、これとは別に、田沼時代の政権末期の頃までに、意次は庶民から大きな反発を受けていました。なぜそんなことになったのでしょうか。「賄賂の横行で政治が腐敗したからだ」と思いがちですが、実は、意次個人にその責任を負わせるには、あまりにも酷(こく)な「自然現象」が本当の理由だったのです。
※下記の映像は6月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
どうしても成功した者に対しての嫉妬心は
起こりやすい物ですし、また、起こりやすいけれど
一番醜い考えでも有りますよね。
嫉妬心を起こすという人間は、ただ成功したという
結果しか見ようとせず、それ以前の努力の軌跡を考えようとも、想像しようともしないですね。
結局、全く苦労というものを知らない人間なのでしょう。逆に
ある程度、自分で苦労しした人間は
嫉妬心を起こしにくいものだと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思いますが、経験談として、自分の苦労を鼻にかける人間は、やはり同じく嫉妬する傾向にありますね。
ぴーち おはようございます!
そうですか。
いわゆるそれは慢心というものですね。
自分がしてきた苦労をすっかり忘れてしまっているか、或いは傍から見ている程、その人が
本当の意味での苦労を味わっては居なかったという
意味も有るかも知れませんよね。
いづれにせよ、一番恥ずべき心ですよね。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりです。世の中には色々な人がいますからね。
意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前藩(まつまえはん)に経営を任せていた蝦夷地の直轄を計画しました。天明5(1785)年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また意次は、アイヌの生活の向上を目指して、農作業を教えようとまで計画するなど、アイヌの自立も目指していました。これは、アイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支えるサケや毛皮などをとって来なくなるからという、松前藩の身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは、全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながしたことで、吉宗によってまかれたタネが、意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。
※下記の映像は6月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
ロシアが南下して来る事を懸念して
それならば、好戦的な構えよりも
むしろ友好関係を密にしてしまおうとする
意次の計画が功を奏したという事でよろしいでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る考えではないかと思われます。このままスムーズにいけばよかったのですが…。