天皇・皇后両陛下は、平成5(1993)年4月に全国植樹祭へのご臨席で、ご即位後に初めて沖縄をご訪問された後、平成6(1994)年2月には硫黄島(いおうとう)で、戦後50年に当たる平成7(1995)年7月から8月にかけては長崎・広島・沖縄・東京で、それぞれ戦没者をご慰霊されました。
また、戦後60年の節目に当たる平成17(2005)年6月には、サイパンを慰霊訪問されましたが、いわゆる「バンザイクリフ」までお出ましになられた際には、岸壁まで歩まれた後に、多くの方々が身を投げた海に向かわれ、黙祷を捧げられました。
さらには、戦後70年の直前にあたる平成26(2014)年には、6月に沖縄、10月に長崎、12月に広島と次々とご訪問され、70年の節目となった平成27(2015)年4月には、日米双方で約12,000人が犠牲となった、パラオ共和国のペリリュー島で戦没者の霊を慰められました。なお、両陛下がペリリュー島をご訪問された4月9日は「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として、ペリリュー州の祝日とされています。
そして、今年(平成28年=2016年)の1月には、大東亜戦争において約518,000人もの日本兵が犠牲となったフィリピンを、皇太子時代以来54年ぶりに、両陛下がご訪問されました。フィリピンでのご慰霊は両陛下の悲願だったとされ、両陛下の強いご意向により、ようやく実現したとのことです。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そう言えば、パラオのご訪問の際、
現地の方達の歓迎ぶりは尋常な無い程の
熱意を感じました。涙ぐむ女性の姿も
あった様で、日本人に対しても、そして
殊更、天皇陛下への思いは日本人以上に
深いものがあるのだなと思いましたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 パラオの皆様の親日ぶりは有難いですね。
国旗も我が国に似せてつくられたという話もあります。
御年78歳(当時)の天皇陛下は、同年2月18日に心臓の冠動脈のバイパス手術をお受けになり、3月4日に退院されたばかりでした。
大手術をご経験されたばかりのお身体でありながら、被災地に思いを寄せられ、式典へのご出席を強く望まれておられた陛下。そのお姿に、私たち国民の多くが感動するとともに、胸が一杯になりました。
「平和と安寧(あんねい)への祈り」をお続けになられる天皇陛下の大御心(おおみこころ)は、被災地のみならず、先の大東亜戦争における数多くの戦没者に対しても、強いご慰霊のご意思をお持ちになっておられることを、皆さんはご存知でしょうか。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
つい先日もフィリピンへ行かれた事も
報道されていましたし、去年でしたっけ?
パラオにも訪問されたニュースも有りましたね。
余りご様態も優れない中、それ程までに
陛下ご自身を突き動かす何かが
お有りなのだと感慨深く拝見させて
おりました。大変慈悲深い事です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今上陛下の大御心に関して、これからしばらくのあいだ更新を続けますので、ご期待ください。
大阪講演同様、昭和天皇の慈愛に満ちた大御心(おおみこころ)に、ご参加の皆様の多くが涙されました。このような感動の実話を、歴史教育でもっと広めていくべきではないでしょうか。嘘や捏造(ねつぞう)だらけの教育は、害悪でしかありません。

次回(第54回)の歴史講座は、平成28年5月21日(土)午後3時より東京・飯田橋で、並びに5月28日(土)午後2時より大阪・梅田で「江戸後期の政治史 ~意次と定信、そして『金さん』」と題し、江戸後期の政治史の「カギを握る」人物のそれぞれの生涯を振り返る予定です。

(クリックで拡大されます)
また、今回の講演の内容は、57回に分けて3月30日よりYouTubeによる映像とともに更新を開始しますので、どうぞご期待ください。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その一方で「四民平等」を実現させ、「士族」となった旧武士の特権を奪いやすくする
↓
ますは秩禄奉還の法で希望退職を募(つの)る
↓
徴兵令から3年が経ち、政府が自前で育てた軍隊が編成される
↓
政府が秩禄処分と廃刀令を断行し、「士族の受難」となる
↓
不満に思った士族が政府に反乱を起こすが、民間から徴兵した軍隊に敗れる
↓
士族は武力による抵抗をあきらめ、言論の世界で政府と対決する
↓
自由民権運動が本格化する
以上のとおり、大きな歴史の流れをたどることで、廃藩置県から自由民権運動までを分かりやすく理解できるんですよね。
当ブログでは、今後も機会があれば、授業研究に基づいた記事の更新を続けてまいりますので、よろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かにこうして時系列で書かれていると
理解度が深まりますね!
結局、廃藩置県から自由民権運動までの道のりは
5年を要したわけですかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、時系列で振り返ると分かりや牛ですし、5年の流れが良く見えてきますよね。
中央集権体制を構築すると同時に、士族の俸給を廃止したい明治政府
↓
しかし、藩主の持つ「領地」「領民」「政治の実権」をすべて奪えば反発も大きい
↓
まずは「版籍奉還」で「領地」と「領民」を取り上げ、旧藩主を知藩事とする
↓
その2年後に廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立
↓
武士の俸給を政府が肩代わりするが、早く廃止したい
↓
しかし、我が国の軍事力を支えた武士をいきなり路頭に迷わせば、諸外国の侵略を招く
↓
国民皆兵をめざして徴兵令を発布し、20歳以上の男性に兵役義務を課す
↓
(続く)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
士族の問題は、それまで
日本においての役割が大きかったでしょうから、
制度が変わったからといきなり下に置く訳にも
いかずに、政府が慎重に対応していった様子を
良く理解させて頂きました。
有難うございますm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回のように時系列にまとめると分かりやすいですよね。
政府による施策が行き当たりばったりではなく、実に巧妙だったかということです。
一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。
逆に、政府軍に敗れた士族たちは、自分たちが持つ武力では政府を倒せないことを嫌でも思い知らされる結果となりました。西南の役の後、士族たちは反乱をあきらめるかわりに、言論の世界で政府に対抗するようになりました。
すなわち、我が国で自由民権運動が本格化する大きな理由となったのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですか・・
武力で勝てなければ、言論で打ち負かそうと
した訳ですね!
確かに腕力で敵わなければ、知力や言葉で
相手を負かそうと思うものですし、
人間の考えることなどは
昔も今も変わりは無いですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今回の場合は平和的な対決となり、我が国でその後内乱らしい内乱がなくなったのは良いことだったと思います。
昭和天皇のご生涯を振り返る際、避けて通れないのが「涙」です。いつもとは一味違う「泣かせる黒田節」に、ご参加の皆様も感動されたようでした。

次回(3月26日)は東京講演を行います。大阪同様、多数の皆様にお越しいただけることを心より願っております。
第53回黒田裕樹の歴史講座(ブログ開設7周年記念講演)【東京講演】
「昭和天皇」
主催:一般社団法人正しい歴史を伝える会
後援:my日本・授業づくりJAPAN
日時:平成28年3月26日(土) 午後3時より
場所:スター貸会議室 飯田橋 (会場は2階です)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,000円
参加をご希望の方(特に関東在住の方々)は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば幸いです。当日の飛び入り参加も歓迎いたします。
今回の講演の際に「吉田松陰と井伊直弼(第51回)」「徳川吉宗と徳川宗春(第52回)」のレジュメを、資料代として金1,000円(第51回・第52回でそれぞれ別料金となります)でお分けします。以前の講演にご参加いただけなかった皆様を中心にぜひお求めください。
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,500円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、これとは別に秩禄処分と同じ明治9(1876)年に、士族の帯刀を禁じる廃刀令が出されており、二重の意味でそれまでの特権を奪われた士族の憤激は、次第に強くなっていきました。
こうした流れに加えて、急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末に扱おうとした当時の明治政府への、日本精神からの異議申し立てという一面もあったことで、国内において「士族の反乱」が相次いで起きるようになりました。
その最たるものが、明治10(1877)年に西郷隆盛(さいごうたかもり)を中心として起きた西南の役(=西南戦争)ですが、半年以上にわたる激しい戦いに政府軍が勝利したことで、我が国の歴史が大きく動くことになりました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
やはりこういうお話を伺うと
政府に楯突いてもどうしても勝ち目が無い
庶民の遣る瀬無さが
なんとも遺憾に思います(T_T)
やはり時代の潮流には逆らえない
のですかね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仰る一面は確かにありますね。
これも冷静な歴史の流れでもあります。
秩禄処分によって、年間の5倍から14倍の額となる金禄公債証書が支給者に発行されましたが、5年間は現金化が禁止されたうえに、それ以後に証書が満期を迎えた後も、抽選に外れれば現金化できないという仕組みになっていました。
しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった、多くの士族が困窮(こんきゅう)するようになってしまいました。
利息だけでは生活できない士族たちは、官吏や巡査、あるいは教員などに転身した一方で、証書を手放して得た一時金で慣れない商売に手を出したものの、いわゆる「士族の商法」で失敗する者があとを絶ちませんでした。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
これは士族にとっては
死活問題ですね(´・ω・`)
背に腹変えられなくなった者達が
反乱を企てても可怪しくない状況にも
思えました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 背に腹変えられなくなった者達が
> 反乱を企てても可怪しくない状況にも
> 思えました。
そのとおりです。これも歴史の流れなんですよね。
詳しくは次回以降の更新をご覧ください。
これらの禄を合わせて秩禄(ちつろく)といいましたが、その支出額は国の歳出の約30%を占めており、先述のとおり、政府にとって大きな負担になっていました。
また、明治6(1873)年には徴兵令が定められたことで、士族とは無関係で兵力を確保できる見通しが立つようになったことから、政府は同じ明治6年に、希望者に対して秩禄の支給を停止する代わりに、一時金を支払う秩禄奉還の法を定めました。
現代でいえば、早期の希望退職者の募集に相当するこの制度によって、全士族の約3分の1の秩禄が整理されました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
政府も対価を支払う事に対して
苦労した様ですね(^^ゞ
尤も、早期退職希望届けを出して
早期に退職金を受け取って
後で算出してみたら、定年まで
働いた後の退職金よりも少なくて
がっかりさせられたなんて言う話も
耳にしたことが有りますが・・(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 尤も、早期退職希望届けを出して
> 早期に退職金を受け取って
> 後で算出してみたら、定年まで
> 働いた後の退職金よりも少なくて
> がっかりさせられたなんて言う話も
> 耳にしたことが有りますが・・(^^ゞ
現代でもそういう話はよく聞きますね。
ただ、今回の場合はここで受け取った方が良かったんですよ。
なぜなら…。