加えて、幕府が享保の改革で緊縮財政を続ける一方で、規制緩和を行うと同時に幕府の政策を先読みして安定した藩政を続ける尾張藩に対して、吉宗本人はともかく、彼を支えた老中の松平乗邑(まつだいらのりさと)は「尾張藩を放っておいては幕府の威信にかかわる」と敵視するようになっていました。
そんな中、ついに元文3(1738)年5月に、尾張藩家老の竹腰正武(たけのこしまさたけ)をはじめとする国元の藩重臣によって、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すというクーデターを起こされてしまったのです。
クーデターによって動きを封じられた宗春に対し、幕府は翌元文4(1739)年1月12日に尾張藩の家老を呼び出し、領内の乱れを理由として、宗春に隠居謹慎を命じました。
後継には御連枝で高須藩主の松平義淳(まつだいらよしあつ)が選ばれましたが、その相続は「幕府が一旦(いったん)尾張藩を召し上げた上で、改めて義淳改め徳川宗勝(とくがわむねかつ)に下す」という形式で行われました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は3月4日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私は「将棋」や「碁」と行ったゲームには全くご縁が無かったのでルールも何も存じませんが、
このお話を聞いていると、昔の日本というのは
血脈を一番に重んじていて、国を治める為には
まずは自分の子孫をより多く残し、親族関係を
広めていく事こそが勝利の秘訣だったのですね。
まるで碁盤の目の上で起きているかの様なお話に
聞こえました。
きっと大きな野望を描いている人と言うのは、
頭のなかで攻め方を図式化して、編み出された方法に従って
戦略を企てているんでしょうね。。(自分はそう言うことに長けていない人間なので良くは分かりませんがw)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
宗春公の場合も、大仕掛けの戦略から逃れられずに、いきなり隠居させられたと言うべきでしょうか…。
そんな折の元文元(1736)年10月に近衛家熙(このえいえひろ)が死去すると、桜町天皇(さくらまちてんのう)の側近で、霊元法皇との関係が深かった一条兼香(いちじょうかねよし)が関白となり、朝廷内で大きな影響力を持つようになりました。
また、これより以前に、幕府は水戸藩が編纂(へんさん)した「大日本史」の出版許可を朝廷に願い出ていましたが、朝廷側の審査役だった大納言の一条兼香は、南北朝問題(「大日本史」では正当な皇統を南朝としましたが、実際の皇統は北朝だったこと)もあって、享保16(1731)年に出版を不許可としました。
にもかかわらず、幕府は朝廷の意向を無視して享保19(1734)年に大日本史を強引に出版してしまいました。顔を潰された格好になった兼香は激怒し、さらにはその兼香が朝廷で権力を持つようになったことで、朝廷と幕府には大きな溝ができてしまいました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
確かに普段から何となく
気に入らないと思っている相手に
対しては、一触即発的な出来事が
起こったりした時には、ここぞとばかりに
その不満を爆発させる結果となりますよね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに普段から何となく
> 気に入らないと思っている相手に
> 対しては、一触即発的な出来事が
> 起こったりした時には、ここぞとばかりに
> その不満を爆発させる結果となりますよね(^_^;)
残念ながら仰るとおりですよね。
そんな時に、不幸にも両者の争いに巻き込まれてしまう人もいます。
宗春公の場合はどうだったのでしょうか…。
当時は享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生んでおり、デフレーションが深刻になっていましたから、幕府にとってインフレは歓迎すべき事態ではありました。しかし、宗春の大胆な規制緩和によって既にインフレが進行していた尾張藩にとっては、貨幣の改鋳はハイパーインフレにもなりかねない危険な状況だったのです。
そこで、宗春は遊郭を統合したり、新たな芝居小屋の造営を禁止したりするなど、遊興施設を整理することによって、施設全体がインフレの影響を受けることを防ぐと同時に、藩内の領民からお金を借り入れることで尾張藩内の貨幣の流通を抑え、インフレが悪化するのを回避したのです。
宗春による様々な施策は、大胆な規制緩和によって「名古屋の繁華(はんか)に京(=興)がさめた」と言われたほど、城下町の名古屋に空前の繁栄をもたらすとともに、自著の「温知政要」に記されたとおりの「他者を温かくいつくしみ、自らは広く寛容な心で忍ぶ」という仁政を常としていました。
ところが、宗春による政策の「大成功」や、さらには宗春個人ではどうすることもできなかった「幕府と朝廷との確執(かくしつ)」が、彼を隠居へと追い込む原因となってしまったのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月27日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですか・・
人間、たった一人でもこの世の中に
多大な影響を与える事も出来ますが、
逆にたった一人の力ではどうしても限界を
感じざるを得ない場面も多いですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
成功者に対する妬みやひがみ、あるいは藩全体の運命など、どうすることもできないこともありますからね。
例えば、宗春は享保20(1735)年に江戸並びに尾張在住の藩士に対して遊興徘徊(はいかい)と博打(ばくち)を禁止しましたが、その後、同じ年に幕府が大名や旗本に対して同様の命令を出しました。つまり、宗春は幕府からのいきなりの禁令で藩士たちが慌(あわ)てないように先んじて命令したのであり、庶民の楽しみを奪うような根本的な方針転換ではなかったのです。
また、翌享保21(1736)年には、藩内に3ヵ所あった遊郭のうち、最も高級な西小路の1ヵ所に統合したほか、新たな芝居小屋の造営を禁止しました。さらに元文(げんぶん)2(1737)年には名古屋と岐阜の城下に4,000両、続いて領内の村にも4,000両の借り上げを申し付けています。
宗春によるこれらの施策は、それまでの規制緩和政策を後退させるものであり、特に8,000両の借り上げは景気を悪化させると同時に庶民の恨みを買ったと一般的に判断されているようですが、これらも幕府の動きを事前に察知した、宗春による方針の転換でした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月27日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、普通の人間は何事も
つい目先の出来事だけに
囚われてしまいがちですが、宗春氏は
大局観という恵まれた才能を発揮していた訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
ただ、たぐいまれな才能を持つ人物に対する世間の風当たりはいつも冷たく、宗春公もその例外でなかったことが残念ですね…。
1.国元ならともかく、江戸においても遊興にふけっている
2.嫡子の初節句の時、江戸藩邸にみだりに町人たちを呼び入れた
3.倹約令を守っていない
これに対し、宗春はごもっともとして受けいれながらも、以下のように反論したと伝えられています。
1.他の大名のように江戸では倹約するふりをしながら、国元で遊興にふけるような行動は取れない
2.節句祭りを町人に見せてはいけないという禁令など聞いたことがない
3.自分は他の大名のように庶民に重税を課すような政策はとっていない
いかにも宗春らしい反論と言えそうですが、時系列的な検証などによって、最近ではこの「三箇条の詰問」は後の創作ではないかとも考えられています。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月27日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
時系列的ですか・・
確かに尤もらしくアレンジされることは
これまでにも沢山事例はあったのでしょうからね。
真相はどうだったんでしょうかね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ここでは詳しく書けませんが、初節句の時期などを考慮すると、つじつまが合わないことが多いんですよね。
後世の創作が疑わしいのは、宗春公があからさまに幕府に逆らった形跡がないからでもあります。
しかし、いくら街が賑わっても、治安が悪くてはどうしようもありません。そこで、宗春は名古屋の町中に行灯(あんどん)をかけ、夜でも安心して歩けるようにしました。それまでの名古屋では真っ暗になった夜に女性や子供が乱暴されることが多かったのですが、そうした悲劇を未然に防ごうとしたのです。
宗春による「女性に優しい施策」は、遊郭(ゆうかく)の設置を公認させました。一見逆行するようですが、性への欲望を遊郭で満たすことによって、武家や商家で女中に手を付けるといった行為を防ぐ役割を果たしました。
また、当時の遊郭は、男性ばかりでなく様々な人々が出入りした歓楽街でもあり、文化の最前線でもありました。遊郭が賑わうことによって物の売り買いが増え、その結果として経済面での潤(うるお)いが領内に行き渡るという効果ももたらしたのです。
また、宗春の施策は地元ばかりでなく江戸にも及び、享保17(1732)年に参勤交代で江戸へ下った際、端午(たんご)の節句の5月5日に、再建したばかりの尾張藩上屋敷(かみやしき)の市谷邸(いちがやてい)において、藩祖(はんそ)の義直(よしなお)が家康から拝領した幟旗(のぼりばた)や、菖蒲(しょうぶ)で飾られた甲冑(かっちゅう)などを見てもらうために、江戸の町民を招き入れました。
大名の上屋敷を町民に開放することはもちろん前代未聞のことであり、吉宗の倹約令で沈滞(ちんたい)していた江戸の町民も、この日ばかりは大いに盛り上がったそうです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月27日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
まあ、確かに
人間も動物ですので
他人の目が行き届かなくなった途端に
理性を何処かに置き忘れてしまう
人も多いでしょうね(^_^;)
本能のままになせる行動を
無理矢理に封じ込めるのではなく
ある程度、何処かで発散させてあげる
事でそれ以上の被害を最小限に留まらせようと言う
考え方は道理に適ったものだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
女性のぴーちさんにご理解いただけたことを、男性の一人として感謝いたします。
鉄ちゃん爺や 黒田 初めまして~♪
私も大阪在住の黒田と申します。
鉄道と日本歴史が大好きな年金生活者ですけど。
私のブログも鉄道や日本歴史が多く登場します。
お気に入り登録をさせて頂き閲覧させていただきますので宜しく。
鉄ちゃん爺や 黒田さんへ
黒田裕樹 はじめまして、拙ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
同じ大阪の同じ名前同士のご縁で、今後ともよろしくお願いいたします。
第一条 大きな愛と広い寛容の心で仁徳ある政を
第二条 愛に敵なし 権現様(=徳川家康)のように仁者であれ
第三条 冤罪(えんざい)は国の恥 罪科はとことん調べつくせ
第四条 継続は力なり 私欲に走らず、志を最後まで
第五条 学問の第一は愛情 小賢(こざか)しい学問より自分自身に正しくあれ
第六条 適材適所 どんなものにもそれぞれの能力がある
第七条 好きこそものの上手なれ 他の者の心情を察するように
第八条 規制は必要最小限で良い 法令は少ないほど守ることができる
第九条 お金は活かして使え 過度な倹約省略はかえって無益になる
第十条 生かすも殺すも庶民の知恵 押し付けではなくまずは仲良く
第十一条 ストレスなしが養生一番 怠(なま)けなければ心身ともに健康である
第十二条 芸能は庶民の栄養 見世物や茶店などを許可する
第十三条 先達(せんだち)はあらまほしきこと(=何事にもその道の先生や指導者はいてほしいものである、という意味。「徒然草」で有名な一文) どんなことでも事情通であれ
第十四条 芸道は偉大 あらゆる芸事を数年で身につくとは思わぬように
第十五条 若者への諫言(かんげん)には若気の至りをもって 異なる意見は相手の年齢を考えて
第十六条 失敗は発明の母 大器量の者でも若い頃は羽目を外すことはある
第十七条 人の命は金では買えない 生命は尊く、常日頃の用心が肝要
第十八条 何事も庶民目線で 世間の事情によく通じ深い愛情を示せ
第十九条 天下の政治は緩急自在で 国の改革はゆっくりと普段の用件は速やかに
第二十条 改革は文殊の知恵で 自分ひとりではなく良き補佐が大切
第二十一条 「まぁええがゃぁ」が臣下に対する主君の心得 古参新参・男女等を問わず平等に深く愛情を示せ
(※「名古屋叢書(なごやそうしょ)」第一巻所収)
「温知政要」の中には「過度な倹約省略はかえって無益になる」など、吉宗の倹約令に対する批判めいた内容もありますが、概(おおむ)ねは現代にも通じるものであり、これらを守ろうとした宗春の政治力や実行力の高さを鑑(かんが)みれば、彼の治世における名古屋の繁栄は「さもありなん」と自然に思えますよね。
では、宗春が行った政策は具体的にはどのようなものだったのでしょうか。そのあらましをいくつか紹介していきましょう。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私も最近少しばかり倹約が過ぎている気がしていましたので、耳の痛い話ですが、
仰るとおり、「生きたお金」の使い方が出来るのなら
大いに使うべきだと思いますね。。
それと第八条についても、現代社会を戒める言葉としては通用するものだと思いました。
あまりに規制、規制の世の中だと返って
犯罪は増えて行く気がしてなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も仰るとおりだと思います。
宗春公の「温知政要」の精神は、現代においても大いに見習うべきです。

継友には子はおろか養嗣子(ようしし)すらいなかったことから、3人の御連枝の中から後継者を選ぶことになりました。長幼の序を優先するならば、通春の兄である美濃高須藩(みのたかすはん)の松平義孝(まつだいらよしたか)が本家を継ぐはずでした。
しかし、将軍家から「継友の遺言」という名目で、実際には吉宗の計らいによって、通春が尾張藩を相続することになったのです。かくして、藩主の二十男で長年の部屋住みを経験した松平通春が、吉宗の偏諱(へんき)を受けて「宗春」と名乗り、将軍家の次に権威のある御三家尾張62万石の大大名となりました。時に宗春、35歳の男盛りでした。
さて、宗春が尾張藩主になった当時は、先述のとおり将軍吉宗による享保の改革が行われており、財政難に苦しむ幕府財政の立て直しの真っ最中でした。
吉宗は支出を抑えるために厳しい倹約令を出しましたが、これを庶民にも強要したことによって、行き過ぎた緊縮政策が人々の消費を冷え込ませたことから景気が悪化しており、それは宗春以前の尾張藩でも例外ではなく、お膝元の名古屋は火の消えたような寂しさが漂っていました。
そんな尾張の人々の度肝(どぎも)を抜いたのが、宗春の藩主としての初のお国入りでした。大名行列において、宗春は鼈甲(べっこう)をあしらった唐人帽(とうじんぼう)をかぶり、衣装は足袋に至るまですべて黒で統一させ、衣装の襟(えり)や袖(そで)には金糸(きんし)が縫(ぬ)い付けられ、漆黒(しっこく)の馬にまたがった宗春の姿を見た庶民は、新しい藩主に大いに期待するようになり、また宗春も彼らの期待に応えた様々な施策(しさく)を実行することになるのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
35歳、男盛りと有りましたが、
現代の感覚に照準を合わせた表現なのでしょうか・・?
それとも、人生50年と言われていたであろう
その時代での35歳でも
当時は男盛りと言われた年齢だったのでしょうか?
それと、確かに人の身なりと言うのは
大切ですよね。見た目で判断することなかれと
言いますが、一瞬にして相手に信用や信頼性を
与える手段としては一番適した方法でも
有りますものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 人生50年の時代でも、35歳は男盛りですね。一番力が入る時期だと思います。
相手に信用させるには、あえて派手にふるまうことも必要ですね。
以後の通春は、享保6(1721)年には吉宗が自ら鷹狩で得た雁(がん)を通春に下げ渡したり、さらには享保14(1729)年に尾張藩の御連枝(ごれんし)、すなわち支藩の梁川藩(やながわはん)が断絶すると、同じ年に吉宗自らの命令で通春が藩の再興を任じられたりするなど、吉宗から大いに目をかけられました。
かくして部屋住みの身から梁川藩3万石の大名となり、同時に従四位下侍従(じゅしいのげじじゅう)に任官して幕閣と同格になった通春は、その年に領地の米の不作が伝えられると、年貢を減じて餓死者を出さなかったり、庶民が困っていた慣例や過剰な税をやめさせたりと、わずか1年数ヵ月の治世であったものの善政を敷きました。
通春は梁川に入ることは一度もありませんでしたが、藩主を退いた後も、梁川との交流が続いたと伝えられています。
さて、本来ならば御連枝の藩主として生涯を終えるはずだった通春に、人生を一変させる大きな出来事が起きました。享保15(1730)年11月に、兄で尾張藩6代藩主の徳川継友が39歳で亡くなったのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
通春と言う方は、若い時から
先見の明があった人物だった様ですね。
順風満帆に見えた人生にも何やら
大きな決断を迫られる場面に遭遇したようですが・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、先見の明があったと思われます。
今後の通春の人生がどうなっていくのかは、ぜひ次回以降の更新をご覧ください。
尾張藩主の子として生まれた萬五郎でしたが、幼い頃には中級あるいは下級武士とも積極的に交流するなど、庶民感覚を身につけたそうです。この辺りは、同じく藩主の子として生まれながら、家臣の子として育てられた徳川吉宗と似通っていますね。
宝永(ほうえい)5(1708)年11月、萬五郎は兄で4代藩主の徳川吉通(とくがわよしみち)より偏諱(へんき)を受け、通春(みちはる)と名乗りました。なお、吉通は奥で夕食をする際には、必ず共に居させたほど、末弟の通春を可愛がったそうです。
しかし、その後の尾張藩は、先述のとおり吉通が正徳3(1713)年7月に25歳で急死すると、同年10月にはその跡を継いだ吉通の子の五郎太(ごろうた)がわずか3歳で亡くなるなど不幸が相次ぎました。尾張藩主の地位は通春の兄の通顕(みちあきら)が継友(つぐとも)と改名して継承し、6代藩主となりました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
20男ですか!!
尤も、一人の母親からではなく、異母兄弟がたくさんいる中での20番目となるのでしょうけれどね(^_^;)
昔は本当に若くして急死される方が多かったですね・・。そう言う人間の寿命の儚さを考慮したからこそ、子孫を一人でも多く残す必要に駆られたのでしょうけれどね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の大名にとっては、血統を残すためにたくさんの子をつくることが求められていました。
そのうえ、乳幼児の死亡率が高かったので、このようなことになったのです。