しかし、秀吉は権益もあって南蛮貿易そのものを禁止することはできず、結果として禁教政策は不徹底に終わり、カトリックはその後も広まっていきました。
ちなみに、秀吉はこの後1592年と1597年の2度にわたって朝鮮出兵を行いましたが、それらは決して朝鮮を侵略することが目的ではなく、イスパニアが中国の明を侵略しようとしたことに対し、先手を打つかたちで秀吉が自ら征服することを決意し、その道案内を拒否した朝鮮から攻め込んだという歴史的事実に関しては、これまでに私が何度か紹介したとおりです。
なお、1596年にイスパニアの商船が土佐(現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教師を送り込んでいる」ことを、世界地図を示して誇ったという出来事があり(これをサン=フェリペ号事件といいます)、激怒した秀吉が京都の宣教師と信徒を捕えて、長崎で処刑するという結果につながりました(これを「26聖人殉教」といいます)。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
何故か今でも韓国人は
日本人と見ると敵対心を露わにしますが
その根源を秀吉の朝鮮半島侵略から始まっているなどと実しやかに言う方がいる限り、韓国も情報に関しては
閉鎖された環境なのだとお察し申し上げますm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
情報の閉鎖は支配者にとっては有益でも、国民に何の利益も生み出しません。
うろつき 秀吉が、北京を制圧し、新たな王朝を築かなくて良かった❗❗❗
我々が、中国人にされるところでした。
満州が、実際にそうですから。
うろつきさんへ
黒田裕樹 結果的にはそうなりますね。
ヨーロッパによるアジアの侵略を防いだという一面はある一方で、複雑なものです。